2014年12月06日

◆「アラスカ無宿譚」(3)

日高 一雄



最初に「コツエビュー村」に行ったのは1967年の事思う が、此処でケデイ・ジョンソンが用意した、生まれたばかりの貧困地域 経済開発法(EDA Fund)が活躍する事となる。


簡単に言うと、小 生の案は経済開発法を使って「コツエビュー村」が経済的貧困地域の指定 を受け、連邦政府から何かの資金を得て新規の鮭事業を行い、新規事業と絡め
て、日本から「コツエブユー村」に冷凍船を持ち込んでその 鮭を買えば、彼らが喜び、我々も何とか商売になるのではないか?日本の 商社マンは此処までやるか、と言う話にもなるが、若い商社マンは合弁会 社の経営はさて置いて、商社マンとして新商売に繋がる此の新企画に暫時 頭と体を使う事になった訳である。



此の為に小生は実際に何をしたのか?商社がエスキモー多数との個人契約では面倒で出来ぬし、EDA対象事業とする為にも、先ずエスキモー幹部を説得し彼らに初めて漁業組合を作らせる。

その組合に連邦政府に対して EDA法に基づく貧困地域への指定と経済開発資金を取得する申請書を書 かせ、幾ばくかの資金を手に入れさせる。一般的には之は返済不要の資金 である。その金で海岸に簡単な鮭加工小屋を建てさせ、場合によっては、 追加して簡単な船を持たせる。


その上で、彼らが水揚げした鮭を一応小屋 に持ち込み、洗浄して生魚のまま日本からの冷凍船に持ち込み、日本に売 ると言う形の契約を作る、と言う流れである。勿論日本船が米国領海内で 魚を冷凍するには、連邦政府の許可を得る事が必要になる。夏の限られた 期間にせよ、自国領海内で魚を冷凍する事を連邦政府が許可するかどう か、は第一の関門で
あった。

どの位時間が掛かっただろうか?兎に角、以上の作業を一人で而も競争相手の商社に漏れぬ様極秘裡にやって、結果的に組合が出来て引取価格も決めて組合と仮契約を署名し、無事連邦政府からも内諾を得て、或る時点でアラスカ側の企画の大体の目安が付いた

。その時点で、本社に連絡し、何 処か此の計画に乗る漁業会社が日本側に無いか?調査・交渉して貰った。


その結果リスクはあるが極洋捕鯨(現極洋)が手を挙げたのである。同志誕生。之が1968年の夏頃であったと思うがその年には仕事にはならなかった。何せ商社としての販売商品はと言えば、現に海で泳いで居る魚であり、購入する極洋捕鯨も、海で泳ぐ商品を対象に先ず冷凍船の派遣に船員、往復燃料、資材の買付、積み込み、など事前に巨額の仕込みを行わねばならない、

大変リスクの高い計画だと思った。しかし、当時の同社貿易 課長故志水宏典氏は果敢な決断をした。因みに志水課長と小生は本社時代 の鮭缶詰取引を通して友人関係でもあった。(同氏は最後に社長になった。)


三菱商事を早々に退職する際、本件の一切の資料を商事に置いて来たので、今は記憶に頼ってご報告して居るが、確か1969年6月頃であったと思うが、準備が一切整い日本からの「第5秋津丸」が指定日にアンカレッジ南のケープ・ブロッサム(ブロッサム岬)沖合5マイルの領海境の指定地点に姿を現わし、船尾に日章旗と米国旗を掲げて停泊して居る姿を見た時は、事業の成否を一瞬忘れて、本当に感激した。

小生はアンカレッ ジから先ず飛行機をチャーターして同船の停泊を確認した上、取って返し て税関に交渉し通関役人を船に乗せて領海境界に居る「第5秋津丸」の現 場に行って貰い、船と船員の入国手続きを行った。

某日、晴れて「第5秋 津丸」は米国領海に入り、而も其処から大きく回ってベーリング海を抜 け、更に奥地の北極圏に向かったのであった。通関時、結構海が荒れていて船が右に左に揺れ、米国の背の高い通関役人が日本式に極端に天井の低 い冷凍船に頭をぶつけながら、一生懸命入管手続きをしていたのを懐かし く思い出す。(つづく)


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