2014年12月08日

◆「アラスカ無宿譚」(5)

日高 一雄



当時「コツエブユー村」には電話が無く、一切の外部との連絡は無線であった。小生も現地では無線を使い、通話相手を無線に呼び出して貰った上、「・・・オーバー」とやった。勿論ホテルは無く、小生が通称「 Tilted Hilton 」(傾きかけたヒルトンホテル)と呼んでいた民家が1軒あるだけだった。

小生が「コツエブユー村」に出張する時の必需携行品は、私物の「スミス・コロナ製のポータブル・タイプライター」と三菱のレターヘッド類、「寝袋」で、一方「コツエブユー村」には弁護士は勿論不在、女性タイピストさえ居なかった。従って、エスキモー・グループとの会話記録や正規の契約書は全てその場で小生がタイプし、村を離れる前に相互に確認したものだった。


当時の故藤野社長が読んで決断された契約書は勿論英文だが、故藤野社長も、英語が大得意の槇原課長も、契約書は三菱社員が自分で書き、且つタイプしたものだとは最後まで気が付かれなかった様である!藤野社長は確かに契約書を読んだ上で実行を決断されたが、北極圏で三菱が仕事を作った事に、秘かに一種の「ロマン」を感じて無言で小生を応援して呉れたのではないだろうか?


此の件は更に後日談がある。大統領としてジョンソンの後を継いだのはニクソンであったが、彼は何と選挙資金貢献大のアラスカ州ヒッケル知事を連邦政府の内務大臣( Secretary of Interior ) に任命したのだった。

連邦政府大臣は当然、任命前に議会承認が必要で、民主党主導の議会内務委員会では、資格審査の中で「ヒッケル氏は内務大臣として不適当である」と言う意見が出され、その証拠としてアラスカ州政府時代の三菱を通しての地元民「エスキモー苛め」の問題が登場したのだった。


ヒッケル審議は異例の長時間審議となり、延々と続いて、委員会は小生を証人喚問する可能性があり、小生に対して、米国出張待機命令が出た。これは何とか免れたが、小生が愛する「傾き掛けたヒルトン」の一部屋で持参のスミス・コロナ製ポータブル・タイプイライターで打ったエスキモー漁業組合と三菱との契約書は、審議証拠書類として何と米国議会に永久保存される事になったのであった。

閑話休題。三菱商事時代、小生は色々の出来事に出会ったし、又自分でも多くの新規の仕事を作った。拙文を此処で切ってもいいと思うが、暫時お付き合い下さるだろうか。

1970年、本社復帰の時点で小生は商事の制度で、課長代理にも達せぬ身分であったが、直接食糧担当副社長・常務の下で、新規事業開発担当を命ぜられた。組織的裏付けの無い個人的な拝命で部下も居なかった。

当時の商事組織では、売買は全て営業部が管理し、開発に関しては、仮に良い案件が出来れば、その案を当該商品担当の営業部長に回して実行して貰うシステムになって居た。

しかし、仮に抜群の良い案件を提示しても、部長からすれば、その案件を「多忙」でも、「利益見込みが薄い」でも、幾らでも断る理由はあった。その時点で開発案件は死ぬ。


これでは、新規商品、又は新規事業開発は難しい。新規事業を開発する為、新たに損失を出す部を作りましょう、と提案して三菱商事で初めて損失計上目的で食糧開発部を作ったのが当に1970年だった。最初の部長は何と副社長であった。之で担当商品の営業部長の判断とは関係無く、開発案件を進める体制が出来た。

例えば1969年に立ち上げた「ケンタッキー・フライド・チキン」は、契約自体は既に本部長補佐職によって成立した後であった。本来なら飼料畜産部長の案件だが、新設開発部として最初の案件となった。

しかし当社は立ち上げ当初から営業は絶不調の日々で、店舗は毎月赤字続き、設立1年後の決算は赤字、2年目は1号店閉鎖となり同年決算は早くも債務超過状態となった。小生にとって頭の痛い存在だったが、之は減資・増資によって切り抜けた。

所が1973年には早くも2回目の債務超過状態となったのである。最初の2店舗が赤字続きで、而も、或る時点で店を閉鎖したのだから、除却損が発生し、損失増加は当然ではあった。この状態をどう解釈し、今後如何に処理するか?(以下次号)

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