2014年12月10日

◆「アラスカ無宿譚」(7)

日高 一雄



例えば1969年に立ち上げた「ケンタッキー・フライド・チキン」は、契約自体は既に本部長補佐職によって成立した後であった。本来なら飼料畜産部長の案件だが、新設開発部として最初の案件となった。

しかし当社は立ち上げ当初から営業は絶不調の日々で、店舗は毎月赤字続き、設立1年後の決算は赤字、2年目は1号店閉鎖となり同年決算は早くも債務超過状態となった。小生にとって頭の痛い存在だったが、之は減資・増資によって切り抜けた。

所が1973年には早くも2回目の債務超過状態となったのである。最初の2店舗が赤字続きで、而も、或る時点で店を閉鎖したのだから、除却損が発生し、損失増加は当然ではあった。この状態をどう解釈し、今後如何に処理するか?

当時、商事には非営業部長10人で構成する投融資委員会と言う買収、新規投資案件を審査する機関があり、資金移動を伴う一切の案件は此の委員会の承認を条件として居た。

小生としてはKFC事業の最終的成功に自信は無かったし、2回目の減資・増資申請をすべきか、どちらかと言えば迷いの雲であった事を白状する。ままよ!と言う感じで2回目の減資・増資申請書を出したが、案の定、事務局段階で門前払いであった。

漸く何とか受け付けて貰って書類を出したが、委員会審議で簡単に却下されたのは或る意味で当然であろう。小生は引き下がる以外方法が無かった。但し、却下ではあるが、余りに馬鹿馬鹿しいから、これは申請自体が無かった事にする、と言う決議であった。

それから出発して如何にして社内事務局を説得し、委員会を説得し、最後に2回目の減資・増資の承認を得たか?結論を言えば、時間と競争しながら、結果的に小生は2回目の減資・増資の許可を得たのである。

4−5年前にKFCJの設立記念日に同社に招待され、隣に座った商事の小島会長に、当時の投融資委員会で小生が如何に2度に亘る減資・増資の承認を得る為に苦労したか、話をしたら、目を丸くしていた。

商事幹部には当社の2度の減資・増資の話は伝わっていないらしい。小島会長は今だったら「此のケースは先ず手仕舞いが原則であり、1回目の減資・増資はありません、増してや2回目とは!」と絶句していた。

2回目の減資・増資申請書を委員会に提出した時、10名もの非営業関係の論客揃いの投融資委員会委員が、一度は却下しながら、何故それを承認したのだろうか?

今、東証第1部上場会社となって活躍して居るKFCJの経営魂の根源と成功の眞の理由は、此の投融資委員会を構成していた当時の三菱商事の財務、主計、審査、業務ら各非営業部長らの「ロマン」の集計では無かっただろうか?後に有名になった大河原社長は此の時点では店舗勤務だった。2回目の減資・増資以降は、同社は順調な成長を遂げた。

当時、商社は何でも屋で有名であり、取扱商品たるや、良く「ミサイル」から「ラーメン」までと言われた。ニューヨークでラーメン・チェーン「どさんこ」を開店し、大成功を収めて17店まで拡大した最初の店は、マジソン街に1974年に開店したものだった。

此の物件では2階に寿司屋(車寿司)とマージャン室を作り、マージャン室は、夜は確かにマージャン室だが、昼は階下が満席の時はラーメン食堂となった。当時のNY駐在員で寿司屋とマージャン室を利用した方も多かろう。小生は1号店を自ら立ち上げたが、日本からのオーナーの青池社長一家の到着を待ち、引き継いで2年で同社経営から手を引いた。(続く)
      
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