日高 一雄
長くなったが、最後に「商社の野球」の話はどうだろう?野球と言っても後楽園で毎年開催される「財界人野球」ではない。米国の名門ヤンキース球団と、1973年日拓から球団買収して成立した現北海道日本ハム・ファイターズ球団との、30年続いた球界初めての球団同志の業務提携の話である。
之は1975年であった。1970年、当時無名の「日ハム」は高松から大阪に進出したが、三菱では大阪支社が動いて三菱が日ハムの筆頭株主となって応援する事となり、当時の大阪支社食糧部長故三村庸平氏(後の社長・会長)からの要請で、東京本社では小生が故大社義則社長と常時情報交換し、大社氏と付き合う事となった。
日拓改め日ハム球団は実に弱かった。故大社社長は何とか強い球団を作りたくて、或る時(東大)野球部出身の小生に球団強化策の相談があり、小生は成算があった訳ではないが、米国球団との業務提携案を出した。故大社社長は経営的に球団経営を軌道に乗せ、且つ若手選手の訓練機会と優秀な米人選手を欲しいと考えていた。
小生は本社在勤4年で再度米国赴任となり、1974年米国三菱ニューヨーク本社に向かった。三菱としての仕事が落ち着いた所で、1975年早々だったと思うが、ヤンキース首脳に「日本ハム・ファイターズ」との提携話を持ち掛けたが、ヤンキース側も、他国の球団提携とは初めての事とてコンセプトが全く理解出来ず、提携話は最初から困難な仕事であった。
時にはお前の英語の「ハム・ファイターズ」はおかしい、その言葉は英語の語彙には無いから、多分(Hand Fighters )の間違いだろう、と言われた事もある。
ヤンキース球団側は、本件の取り扱いは社長扱いを面倒と見て、実務担当の専務を三菱の相手として指定して来た。小生はタル・スミス専務(後のテキサス・レンジャーズ創立者―現在ダルビッシュが在籍)との厳しい交渉を何ケ月か重ね、兎にも角にも一応の契約原案の如きものを纏めた。
交渉には常時三菱側の弁護士も参加させた。正直に言えば、業務提携とは言っても、これに依ってヤンキース側が日ハム球団から得るものは何も無かったと言っていい。それ故に交渉は困難であった。
日ハム側は言わば球団経営のド素人で、ヤンキースの球団経営方法のポイントを知る事、プレイヤー対応のノウハウを得る事、米国に若手有望選手を送って訓練して貰う事、その為名門球団内に日ハム職員を一人入れて貰う事、は大いにメリットがあった。此の面倒な要請を小生はスミス専務との交渉で、何と年間10万ドルと言う、信じられない程の安い金額で話を纏めた。
大体の契約内容が固まり、頃は良し、と1975年冬、東京から飛んで来た故大社義則オーナー、球団の故三原修社長と三菱から顧問弁護士を連れて、冬のヤンキース・フロリダ・キャンプに調印に行った事を思い出す。
ヤンキースが球場の駐車場に留めて事務所として使用していたキャンピング用 のトレーラーハウスに我々一行が入った時は、我々は調印式と思ってい た。しかし、トレーラーハウスに入った途端に故ゲーブ・ポール社長か ら、「こんな話は一切聞いていない、契約なんて飛んでも無い」と言う言 葉を聞き、仰天した。
此の言葉を聞くと同時に小生は怒り心頭に達し、先ず話を大社氏、三原氏に通訳する事を忘れて、言葉が先に勝手に口から飛び出して仕舞った。「驚いた。こんなアメリカ人には今日まで会った事が無い。契約はこちらからお断りする」と言うと共に体が反応して、トレーラーから飛び出して仕舞ったのだった。大社さんと三原社長は相手の英語も、小生の英語も分からず、ウロウロするだけだったが、小生は「兎に角、外で説明するか
ら、一緒に外に出て呉れ」と頼んだ。(つづく)