馬場 伯明
今年も1.17が巡って来た。あの大震災から20年になる。私は大震災を挟み大阪で単身赴任の6年半を過ごした。住まいは神戸市東灘区住吉であった。1995.1.17大地震の当日は3連休のため千葉の自宅へ帰っていた。
1.17早朝、東京駅で6:00の「のぞみ」に乗る予定だったが、神戸で大地震との緊急放送で、新幹線は停止。翌1.18、京都駅着、普通電車で梅田の大阪支社へ着いた。事務所はキャビネなどが転倒し、もう、めちゃくちゃだった。私たちの震災とのたたかいがここから始まった。
極限状況に直面した人々の悲しみやどうしようもない怒りが渦巻いていた(死者はその後累計6,434人、負傷者43,792人も・・・)。そして、幸運にも助かった喜びと安堵感、その生身の「人間模様」が今も鮮明に浮かんでくる。本文で紹介する人は負傷者もいるが皆生きていた。
私たちは、苦しい中でも踏ん張り、ユーモア精神を失わず、開き直り明るく生きていた。あらためて亡くなられた方々へ哀悼の誠を捧げるとともに、堅固な防災都市をしっかり維持するために備えを怠ってはならない。
震災の中の人々の行動の断片(人間模様)を以下に記す。文中のAさんやA君は誰でしょうか(事実だけど、やはり匿名とする)。その中に私もいる。たまに思い出し独笑いをする。2度とご免だと思いつつも、遠ざかっていく記憶は少し悲しい。
1.「夜明けのストリーキング」Aさんの楽しみは寮の朝風呂である。1月17日、5時30分頃から湯船につかり鼻歌三昧。突然ドーンと大地震。体が宙に浮いて叩き付けられ、割れた大量の窓ガラス片が湯船に降った。歪んだドアをこじ開け暗い廊下を事務所へ走った。と、その時、はっと気づけば、フリチンチンだった。
2.「みのむし、幸せ」震災で水、ガス、スチーム暖房がストップし、寮はメチャ寒い。割れた窓をダンボールで覆っているが、隙間から寒気が漏れてくる。全部の布団を掛けてもダメ。そこで登山用の寝袋をとり出す。寝袋に入り布団に入るとこれがけっこうホカホカだ。目だけを出した「みのむし」のA君は寒い夜長に「小さなしあわせ」を見つけた。
3.「愛の証明」Aさんは亭主関白。俺が一番、俺が大将の人生一路。いつもは酒とTVを見ながらコタツで朝までうたた寝も多い。その日は久しぶりに妻と枕を並べて寝た。ところが、大地震!
Aさん、とっさに布団をかぶりおおいかぶさり妻を守った。「どういう気だったの、あんな時に」と後に笑顔で冗談をいう妻。「これでAさんは奥さんからの定年三行半はないね」と近所の人に羨ましがられた。
4.「震災復興需要へ、走れ、走れ」東京から神戸は遠い。神戸の痛みはわからない。1週間後本社筋から「復興需要だ。ビジネスチャンス。それ行け」の大合唱。ソリバッテン(それだけど)、(偉いさんの)Aさんは自宅の屋根の修理はヨソの商品ば早々に手配済ゲナ(らしい)。会議では自社関連商品を販売せよとのハッパですタイ。(ヨソの商品の方がチョ
イ安かですもんネ)
5.「セントラルヒーティング」:暖房のない夜は寒く長い。こんな夜は部屋に多くの人間が集まり「吐息暖房」。それから何と言っても酒、酒、酒だ。芯から温まるセントラル暖房だ。でも巨人じゃないぞ。レロレロ〜〜。
「あらまぁ、いいもんがある。無修正本番ビデオだ」とA君。電灯を消し、息を潜めて再生した。なるほどフムフム、皆の血流はセントラルへ。熱くなってきたぞ。さあ、部屋へ戻って、自家・・・発電だ!
6.「ボランティア考」Aさんたち十数名は東灘区の団地へボランティア出動した。ガレキの片づけ、可燃/不燃物仕分け、可燃物の焼却などを手伝う。それでも、目の前のやるべきことに比べできたものはわずかだ。
日は暮れて道はなお遠い。しかし、この惨禍の中での小さな体験をとおし、1人ひとりが本当のボランティア精神を培うのだ。お涙頂戴の「TV物語」ばかりを見ていても事態は解決しない。
7.「『暴言』に怒れ」(私たちは20年後であってもこんな暴言を決して忘れてはならない)「自分で炊き出しをすればいい(中川大阪府知事)」「死体を焼却しました(日本TV記者:ガセネタ)」、「(長田の煙を見て)温泉町のようです(筑紫哲也)」、「1度見ておかんと世間話もできん」(渡部恒三代議士)」、「両親をなくした子供を撮りたい(TBS
記者)」
8.「自分のウンは自分で」:水道が止まった。水がない。大小の出物を流そうにも水がない。給水所まで600mを往復、ポリタンクの水の重さを実感する。オイルショックの頃「神(紙)に見放されたら、自分の運(ウン)は自分でつかめ」というトイレの落書を思い出した。
紙がないのも困るが水がなくてはもっと困る。こんなに大切な水を「ウン流し」にジャブジャブ使ってよいのかと、ウンウン自問自答しつつウンを流していた。
9.「東京から、大丈夫か」震災直後の1/17、5:50、Aさんは三宮のスナックのママに「大丈夫か・・・」と電話した(直後から「不通」となる)。2ヶ月後、Aさんはスナックを訪ねママと感激の対面、「男」を上げた。私たちもついでにお相伴。「一瞬びっくり。でも、心にズキン!最高に嬉しかった」とママ。(「嬉」しいは「女」が「喜」ぶと書く!)。
10.「サンテレビさん、ありがとう」大手のTV局が湾岸戦争さながらに、空から陸から興味本位の「災害報道」をくりかえす一方で、神戸のサンTVは被害者に役立つ「救援情報」の報道をずっと続けた。避難場所、水道、ガス、電気などのライフライン情報だ。
災害や他人の不幸を商売にせず地元で育ったテレビ局が期待どおりの働きである。サンTVさんありがとう。ずっとがんばってくれや。サンTVの視聴率はみんなでドーンと上げたるで・・。
「忘却とは忘れ去ることなり 忘れ得ずして、忘却を誓う心の悲しさよ」(昔の・・・連続ラジオドラマ『君の名は』より)。
大震災の事実も恐怖もすべて忘れてしまいたい。しかし、震災時の人の心の動きは、その醜(みにく)さも暖かさも、両方ともなかなか忘れられない。でも、忘れてはならないものだ。(千葉市在住 2015/1/15)
(注記)
本文は、阪神淡路大震災の11年後の本誌第297号(2006/1/15)への拙稿の掲載分を小修正したものです。