平井 修一
パリのテロを受けて「表現の自由」についての議論が盛んだ。
宮家邦彦氏は「驚くのは風刺画家たちの無知と傲慢さだ。特にムハンマドに関する一部の風刺画は第三者の筆者が見ても悪趣味としか思えない。
漫画家の自由はあくまで『表現』の自由であり、風刺に関するフランスの一般キリスト教徒と同程度の許容度をイスラム教徒に求める権利までは含まない。欧米マスコミの金科玉条的報道にはやはり違和感を覚える」と書いている(産経1/15)。
NW1/20「『表現の自由』の美名に隠れた憎悪も糾弾せよ」から。
<犠牲になった週刊紙シャルリ・エブドの編集者や風刺画家は、今や「表現の自由」という大義の殉職者と化した。
だが、そう単純な話でもない。預言者ムハンマドを題材にした彼らの風刺画は、無分別で人種差別的だったとも言えるだろう。ムハンマドの絵を描くこと自体を冒涜と考えるイスラム教徒の怒りをあおることだけが目的のようにも見えた。
テロ事件後に巻き起こった議論は大抵、欧米人がイスラム教徒の感情を害することは許されるか許されないか、という二者択一だった。ムハンマドを描くことは言論の自由の下に擁護されるべきなのか、一切慎むべきなのか。
ニューヨーク誌のジョナサン・チェートに言わせると、答えは明白だ。「宗教を冒涜する権利は自由社会の最も基本的な権利の1つだ」と、彼は書いた。
だが、この問題を二者択一で論じるのは誤りだ。私たちは同時に明白な人種差別を声高に非難するべきだ。「先鋭的」風刺画が単にくだらないイスラム攻撃である場合は、そう指摘しなければならない。
フランス全土が悲しみに沈む今、こうした問題を論じることは難しいが、必要なことでもある。現時点でフランス政府はシャルリ・エブドに100万ユーロ超の支援を約束している。
表現の自由を支持する力強い動きだ。だが同紙の「表現」は、政府が支援すべきたぐいのものとは思えない>
NW1/8「イスラムへの憎悪を煽るパリ週刊誌銃撃事件」から。
<シャルリ・エブドのターゲットはイスラム教だけではない。最新号にはキリストの存在に疑問を突きつける議論のパロディーが掲載されているが、キリスト教徒が編集部を銃撃することはない。
今回の事件で死亡した編集長のステファン・シャルボニエは11年に本社が放火されたときにこう語っている。「(われわれは)多くのテーマに対して挑発的だが、イスラム過激派を扱ったときにかぎって暴力的な反応が起きる」>
イスラム過激派はどうしようもない狂信者として、通信傍受や渡航制限などを含めあらゆる手段で封じ込めるしかないのだろうが、イスラム教徒も狂信者には大いに困惑しているようだ。
酒井啓子氏の論考「嫌イスラームの再燃を恐れるイスラーム世界」NW1/9から。
<シャルリー・エブド誌襲撃事件は、世界を震撼させている。欧米諸国を、というより、世界中のイスラーム教徒を、だ。
フランス版9-11事件ともいえるほどの衝撃を与えたこの事件に対して、イスラーム諸国は即刻、テロを糾弾し、フランスへの哀悼を示した。フランスと関係の深い北アフリカ諸国や、経済的なつながりの強い湾岸諸国はむろんのこと、ほとんどの中東の政府、要人が深々と弔意を示している。
エジプトにあるスンナ派イスラームの最高学府たるアズハル学院も事件への非難声明を出したし、欧米諸国から「テロリスト」視されているレバノンの武装組織ヒズブッラーですら、惨殺されたフランスの漫画家との連帯を表明している。
意地悪な見方をすれば、この事件がイスラーム教徒の「踏絵」と化しているともいえる。ちょっとでも犯人側をかばうような発言をして、今後吹き荒れるのではと懸念される欧米での嫌イスラーム風潮に巻き込まれて「テロリストの一味」視されたらたまらないと、不安感が蔓延しているのだろう。
ブッシュの戦争の後、オバマ大統領が就任後最初に行ったのは、「イスラームを敵に回しているのではない」ということを中東諸国に宣言してまわることだった。それが、「イスラーム国」の登場で逆戻りしつつある。イスラーム=アルカーイ=テロ、との単純化を払拭しようとしてきたのに、今、再び欧米社会でイスラーム=イスラーム国=テロ、という単純化が主流となりつつある。
シャルリー紙の侮辱は許せない、だが表現の自由をテロで奪うのはケシカラン、というごく真っ当な感覚を、イスラーム教徒も当然持っているのだ、と認識すること。そのことを、テロの痛みのなかで欧米社会が失わずにいられるかどうか>
産経1/14の曽野綾子氏の論考「言論の自由と覚悟 『流行としての抵抗』は本物のでない」は、この事件および事件後の人々の反応についてのひとつの良識を示しているように思う。
<「シャルリ・エブド」紙は普段6万部くらいしか発行されていなかったマイナー紙なのに、この事件をきっかけに一挙に300万部も発行されると聞くと、これも釈然としない。
大多数の人が、多分安全な立場にいて、興味本位で新聞を買ったりデモに参加するくらいのことで、自分は自由を支持する人道主義者だという証を得たいのだろうが、それなら普段からこの新聞を買ってあげていればよかったのである。
私はカトリックの修道院付属の学校で育ったが、まだ幼い時から、欧米人の修道女の先生に、「決して他人の信仰の対象に、無礼な言動をしてはならない。また時には社会に害毒を流すような人が、その宗教の信者にいたとしても、その人の行為一つで、その宗教全体を批判してはならない」と教わった。
まだ小学校の生徒だったのに、ここまで冷静な姿勢を教えられたのだから、私はほんとうにいい教育を受けたのだと思う。
流行としての抵抗運動は、命をかけていない以上、本物ではないのである>
八百万の神の国で育った小生は「宗教は生きるうえでの智慧」としか思っていない。距離を置いているから、信じるとか洗脳とは無縁だ。信じれば自分で考える必要がなくなるからラクチンなのである。お偉いさんが導いてくれるから、それに従えばいいというわけだ。これでは脳みそは劣化を免れない。
自分で考え、しっかり判断し、二度と騙されない――この覚悟が大事なのだと思っている。(2015/1/17)