2015年01月24日

◆司馬史観に騙されるな

平井 修一



秀吉の朝鮮征伐(文禄・慶長の役、1592−1598)の動機が今もってすっきりしないので調べてみた。

<豊臣秀吉が主導する遠征軍と、李氏朝鮮および救援に駆けつけた明の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を舞台にして戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大の戦争とされる。

秀吉の「唐入り」構想に基づき、朝鮮に「征明嚮導」、つまり明への道案内を命じたところ、拒絶されたことから、まずは朝鮮を征服するとして文禄の役が始まった。朝鮮はほとんど無防備、無警戒に近い状態で、秀吉による奇襲攻撃を防ぐことはできなかった。

その後、明からの援軍、朝鮮義兵の参加もあり、秀吉軍は窮地に追い込まれた。

明・中国を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦であり、日本と中国の戦争だったという見方も存在する。秀吉の明征服計画について、戦後日本に限ると秀吉の誇大妄想として評価することが多い>(ウィキ)

「誇大妄想」・・・司馬遼太郎は「秀吉の自己肥大」とか言っていたが、誇大妄想や自己肥大で「16世紀における世界最大の戦争」をするか。どういう時代だったのか。

マレーシア:15世紀にマラッカ王国がポルトガルに支配される。

フィリピン:16世紀にマゼラン率いるスペイン遠征隊が侵入、武力でルソン島を平定した。

<スペイン帝国は1492年「アメリカ大陸の発見」によって新たな領土を獲得し、国家としても隆盛を極めていた。1521年にはアステカ王国を滅ぼし、1532年にはインカ帝国を滅ぼし、アメリカ大陸はそのほとんどがスペインの植民地となった。

スペイン帝国はフェリペ2世の在位中に最盛期を迎えた。1580年から1640年にかけてスペイン王がポルトガル王も兼ねるようになり、中南米やアジア・アフリカ沿岸に点在するポルトガルの海外植民地を獲得した。

16世紀中盤から17世紀前半までの約80年間はスペインが史上最も繁栄した時期であり、「黄金世紀」と呼ばれている。その繁栄の様は「太陽の沈まない国」と形容された>(ウィキ)

キリスト教宣教師がまず乗り込む。次いで軍隊がやってきて征服する。スペインの世界制覇の全盛の時代に、唐(支那)、天竺(インド)さえも侵略される恐れがあった(後にインドはそうなった。支那は半植民地)。

国内を統一した秀吉は「このまま座視していたらスペインに?み込まれる」と危機感を持っていたろう、そして「ここは一番、唐を取られる前にこちらから押し出して版図に入れよう」と考えるのはごく自然なことだ。

<天正14年3月、イエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は、日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりで、そのため新たに2000隻の船の建造を始めているとしたうえで、2隻の大型船(ガレオン船)の斡旋を依頼している。

天正19年9月15日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に朝貢と服属を要求。既に朝鮮と琉球は日本に入貢していると述べている。書状は、海外情勢に詳しかった商人原田孫七郎を使者としてマニラのスペイン領フィリピンの総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスのもとに届けられた。

天正20年(1592年)5月18日付、関白豊臣秀次宛朱印状では、高麗に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与える、とした。

また秀吉自身は北京に入ったあと、天竺や南蛮(ヨーロッパや西アジア)の征服のために寧波に移るとした>(ウィキ)

15世紀中頃から日本は長い戦国時代にあったため、秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の将兵がおり、これは当時では明と並び世界最大規模の軍隊だった。

1543年の鉄砲伝来で日本に持ち込まれた火縄銃は、その後直ぐに国産化され日本国内で普及していた。当時の貿易取引書からの推計で、戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、世界最大の銃保有国となっていた。

なお、当時の日本の武士人口は200万人であるのに対して、イギリスの騎士人口は3万人であった。

優秀な将兵と精強の武器。秀吉の立場に立ちリアリズムと地政学で考えれば、日本を防衛するためにスペインより先に明国を征服するのはごく自然な流れだ。さもなければスペインは支那兵を使って日本を侵略することになるからだ。

日露戦争はロシアの南下を恐れた日本が辛勝した。朝鮮征伐は慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が亡くなったことで終息に向かったため勝敗はつかなかった。

徳川時代になって李氏朝鮮との国交は回復。明はこの戦争で出費がかさみ財政破綻、日本と国交を結ばないまま1644年に滅亡した。敗者は明だった
ろう。

明に代わって中国を支配するようになった清は、すでに日本が鎖国したため貿易は行うが、正式な国交を持とうとはしなかった。

秀吉は誇大妄想や自己肥大で戦争を始めたのではなく、その動機は専らリアリズムと地政学による「自存自衛」にあったのだ。リベラル系の学者やインチキ司馬史観に騙されてはいけない。歴史は秀吉に無罪を宣告するであろう。(2015/1/23)

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