2015年02月20日

◆医者・森 林太郎が嫌いなわけ

渡部 亮次郎


森鴎外(本名:森 林太郎)1922(大正11)年7月9日、萎縮腎、肺結核のために死去。享年61。

「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス 」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎」とのみ刻されている。明治天皇に「虚仮にされた」反発がこうさせた。

東京・向島弘福寺に埋葬された(現在は、東京都の禅林寺と島根県津和野町の永明寺に改葬されている)。なお、墓碑銘は遺言により中村不折(明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家、書家)によって筆された。戒名は貞献院殿文穆思斎大居士。

森を文学者としてしか見ない人はこの遺言を不思議に思うらしいが、医者として見た場合は「明治天皇に嫌われた医者」として当然である。1度も陪食を賜らなかったのに、ライバルの高木兼寛は4度も賜った。今の言葉で言えば「アタマサ キノコ」だったのだ。

文久2年1月19日(1862年2月17日) 石見国津和野(現・島根県)で生まれた。代々津和野藩主、亀井公の御典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった。

東京大学医学部卒業後、陸軍軍医になり、官費留学生としてドイツで4年過ごした。留学中は、ペッテンコーフェルらに従いて医学研究をするかたわら、西洋の哲学や文学などに触れて多大な影響を受けている。

また、北里柴三郎とともにコッホのもとを訪れたり、ナウマン(ドイツの地質学者)を批判したりしている。1888年(明治21年)に帰国し、陸軍軍医学校・大学校教官に任じられた。

帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在1月ほどで離日する出来事があり、このことが小説『舞姫』の素材の1つになっている。後年、エリーゼと文通するなど、その人を生涯忘れることができなかったとされる。

1894年(明治27年)から翌年まで日清戦争に軍医部長として出征。1902年(明治35年)に東京勤務。1904年(明治37年)から1906年(明治39年)まで日露戦争に第2軍軍医部長として出征し、1907年(明治40年)には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に任じられた。

陸軍軍医総監・医務局長を9年つとめて退官し、その後、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)、さらに帝国美術院(現日本芸術院)初代院長に就任した。

よく知られているように、日露戦争当時陸軍で増発した「脚気」による日本陸軍の死亡者は27,800人に達したにも拘わらずなすすべなく、防止策として米の胚芽(ぬか)摂取を主張する海軍省軍医総監高木兼寛を評して「糠が有効なら小便も有効なのか」と非難している(別人との説もあり)。

しかし、その後の研究は糠=ビタミンB1=脚気特効薬が証明され黴菌説の森は科学的に否定された。森に「非難」された高木兼寛こそは日本初の医学博士に任じられ慈恵大学の創立者となった。

<帰国直後、ドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが来日し、滞在1月ほどで離日する出来事があり>ということについて、私は「鴎外は狡い」と思う。

脚気について功績のあった高木兼寛はイギリス流の実証主義で、脚気が麦食で治る理由を明らかにできなかったのは確かに難点ではあったが、だからと言って口を極めて非難した森の黴菌説にも説得力のある論理はなかった。あるはずが無い。

そこにあるのは悪臭紛々のエリート意識。エリート意識をひけらかしたいやらしい男の初代が森と言えないか。あぁ厭だ厭だ。2008.04.28執筆
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