2015年02月24日

◆平成19年度國語施策懇談會を聽いて

上西 俊雄



(北郷山人のサイトがなくなった。同サイトの月譚「遠景」08/04/10で公開の小文をそのまま投稿する。數字は算用數字に變えた。懇談會があったのは平成 20 年 3月 25 日。)

懇談會なら「に出席して」とすべきところだが講演會であった。文化廳の用語が特殊であるのではなく元來は懇談會であったのかも知れない。實際は文化審議會の報告であった。

最初は前會長の講演。その講演のをはりに「實は」と前置きがあって「小學校からの英語教育には反對」との意見表明があったので思はず拍手したのであるが、「中學校の英語教育では會話が大事」だとあったのでがっかりした。

會話重視の結果、英語の力が増したといふ事實があるのだらうか。筆者はアルファベットが表音文字であるといふ根本のところを教へてゐないのが問題だと思ふものである。ドイツ語やフランス語など、まづ字母の唱へ方から訓練するのに英語にはそれがない。

小學校のローマ字でやったと思ってゐるのかも知れないが、そのローマ字は假名漢字變換のこともあって單なる符牒扱ひだ。だから我國の英語教育では文字と音聲とは別のこととして教へることになってゐる。もし英語教育を立て直すつもりならローマ字教育も視野に入れなければならないはずだ。

次いで、國語分科會漢字小委員會における審議についての報告があり、「國語施策としての漢字表の必要性」といふことが述べられた。

配布資料には「言語生活の圓滑化とは、當該の漢字表に基づく表記をすることによって、文字言語による傳達を分かりやすく效率的なものとすることができ、同時に情報機器の使用による漢字の多用化傾向が認められる現在の情報化社會の中で、逆に〈漢字使用の目安としての漢字表〉がなかった場合のことを考へてみれば明らかである」とあるが、ちっとも明らかでない。

戰後の國語行政が漢字廢止もしくは消滅を目指したものであったことは報告にもあった通りで漢字表は、その經過措置であった。しかし消滅とはならず情報化時代になって漢字使用は逆に増えたわけである。要するに見通しを誤ってゐたわけであるから、さう詫びれば濟む話ではないか。

JIS 漢字 6355、情報機器に搭載されてゐる漢字は既に一萬を超える現在「〈常用漢字表の存在意義〉がなくなったのではないかといふ見方もある」と認めた上で「一般の社會生活における漢字使用の目安を定めてゐる常用漢字表の意義を損なふものではない」とするのは如何にも苦しい。

しかも今後、定期的に漢字表の見直しが必要だとして、膨大な量の資料から漢字の頻度調査をやるといふ。JIS漢字のときにやってゐることと作業としては違ひはあるまい。これでは經濟産業省と文部科學省の覇權爭ひではないか。

漢字使用についての見通しを完全に誤った上に、漢字表の目的を變へて存續を圖るのは税金の無駄といふだけではない。漢字廢止へ向けての經過措置には、漢字表の他に字體のことと代用術語の問題がある。

例へば示偏。これは表内字はネのやうに書くことになってゐて、この部分の文字は倍に増えた。

漢和辭典の引き方を教へる場合にも、表外字との調和の點からも、漢字文化圈の外國人留學生にとっても、また國際空港等で簡體字で同じことを表示する無駄の點からも整理すべき問題ではないか。

念の爲に言へば頻度を理由に新字體の方を優先すべきといふのは理屈にあはない。今、新聞雜誌など新字體でなければ發表できないところがほとんどだからだ。

今假に代用術語と呼んだもの、これは漢字制限下で術語の變更を迫られて工夫されたもので「函數」を「關數」とした類である。これはウィキペディアで、どちらで立項するか綱引きがあった。

大學の論文における頻度から當然「關數」であるとする議論が優勢であったが、文部省が戰後の國語行政に關して過ちを認めて詫びてない以上、當然の結論ではあるかも知れない。

しかし、小川洋子の『博士の好きな數式』では「函數」だ。頻度は文部省の規制にとらはれない資料によらなければ公平とは言へないはずだ。その意味では戰前の文獻によるのが正しいのではあるまいか。とにかく代用術語も字體と同樣、整理を迫られてゐる問題だと思ふ。

假名遣についての審議はなされてゐなかったのか報告がなかった。

戰後の國語行政を領導した人々は漢字追放に一所懸命であったためか假名遣については眞劍に考へたとは思はれないのであるが、それでもいはゆる現代假名遣にすることが、過去の日本語のありやうに影響することまでは想像してゐなかったはずだ。

國歌國旗法の君ヶ代の歌詞は現代假名遣。その結果は正しい表記をみるとihaho と歌ふことになるだらうといふこと。その前兆を先日、某公共放送の連續ドラマで見た。何と吉田兼行は「ものぐる」を欲しがってゐたのだ。

なほ、昭和 61 年の内閣告示によれば現代假名遣は「主として現代文のうち口語體のものに適用する」とあり、

また歴史的假名遣について我が國の歴史や文化に深いかかはりをもつものとして尊重されるべきことは言ふまでもないとしてゐるのであるから、

國歌國旗法は大きな誤りを犯してゐることになる。この法律でもって傳統の尊重を説くのは皮肉としか言ひやうがない。

しかし、漢字小委員會はこのやうな問題には我關せず焉で、「分かりやすい日本語表記に不可缺な『國語施策としての漢字表』に基づいて、情報機器に搭載されてゐる多數の漢字を適切に選擇しつつ、使ひこなしていくといふ考へ方を多くの國民が基本認識としてもつことが大切である」といふ。

まるで、漢字をみだりにつかってはならぬと言はんばかりではないか。「分かりやすい日本語」であれば、そもそもかかる會を懇談會とは言はぬであらうし、「多用化傾向」などといふもって廻った言ひ方など用ゐぬはずではないか。

人名用漢字について「子の名といふものは、その社會性の上からみて、常用平易な文字を選んでつけることが、その子の將來のためであるといふことは、社會通念として常識的に了解されるところであらう」としてゐるが、これも見通しを誤ったと言ふべきであらう。

子供には特別な名前をつけてやりたいと願ふのが本當であらう。

漢字制限下では、その漢字本來の意味を踏まへながら特別な名前を工夫する餘地は小さかったからかもしれない。

いや、それよりも漢字を表音文字のやうに見ることを教へてしまったためかも知れないが瑛里樹(エリナ)、秋波(アキハ)、彩味(アミ)、若佳菜(ワカナ)、萬櫻(マオ)などといふ名前があると言ふ。

辭典に當たってみれば、「秋波」などといふ名前を付けることはないはずだ。

漢字使用について指圖をするやうなことを考へる前に辭典の使ひ方を教へておく方がよほどましだ。學習指導要領に國語辭典や漢和辭典の使ひ方のことがないのが變だと思ふ。

漢字委員會の報告は長く、質問の時間がなくなってしまった。

二つめは日本語教育小委員會の報告。國語教育でなく外國人に教へる日本語教育のこと。

我國における外國人登録者數のこととか、日本語教育に關する主な事業の概要と豫算額など、グラフや表をつかっての報告であった。

金額は34百萬圓のやうに書かれてゐるのが奇異であったが、これは文化廳のやり方なのださうだ。日本語は四桁區切りだから、この場合は3400萬圓となってゐないと讀みにくいではないか。

やはり日本語を病んだ人がやってゐるところなのかも知れないと思った次第である。
       
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