宝珠山 昇
戦後70周年に当たり出されるかも知れない「安倍談話」についての論議が----「植民地、侵略」、「多大の損害と苦痛」、「謝罪の表明」などの要否、「そもそも談話は必要ないのではないか」、など----盛んである。
以下に、「頂門の一針」第588号 平成18年10月03日(火)掲載の「先の大戦の謝罪は完了しています」と同旨ながら、小生の希望を述べさせていただきます。
日本は、先の大戦において「降伏」し、(事後法ではあるが)国際法に基づく裁判の判決を受諾し、「服役」し、1951年の講和条約によって「釈放」され、国際社会に復帰している。
占領下で、死刑を含む処罰を受諾・実行し、憲法を含む基本法を改正し、占領者が気に入らない諸制度を解体(例えば、皇室典範、陸・海軍、財閥の解体、等)などした。
その後の、1958年の国連加盟、諸国との友好協力条約、などは、関係諸国による“謝罪完了”の証明書、確認書である。これらは、例えば、1965年の日韓国交正常化、1972年の日中国交正常化交渉、などにおける諸国の指導層の対応・姿勢を見れば、容易に理解される。
こうして、我が国は、憲法、諸条約などを愚直といわれるまでに順守し、国際秩序の維持・増進、開発援助、などに寄与し、多くの諸国はこれらを歓迎、高く評価してきた。即ち、諸国に対する謝罪はとっくの昔に名実ともに完了している。
加えて、戦後50周年の「村山談話」でも、60周年の「小泉談話」でも、謝罪の表明をし、諸国の理解を得ている。にもかかわらず、なお、国際法等に反する内政干渉にもあたる言動が見られるのはなぜだろうか。
彼らは、「日米同盟」、「戦争責任」、「靖国参拝」、などを突いて、日本国内に対立・亀裂を生じさせ、これを彼らの国家戦略遂行の手段の一つとして利用することの有益さ・うま味を体験・実感し、活用しているのではないか。
「被害者の記憶は長く残るが、加害者の記憶は消えやすい」などの古来不変のことわざなどを引用して、“敗戦国史観”を強要し、謝罪の言葉を引き出し、個人益を得ようとしているように見える公人も見られる。これらに阿り、他国を利する売国的・国賊的行為をためらわないものもいる。
「被害者の記憶は長く残る、、、」は、人類発祥以来の人間の本性を表し、部族、民族、宗教者などの個人・私人の立場では、否定することのできない側面を指摘するものである。(いま、ISILなどが、11世紀にさかのぼる十字軍などを持ち出して、蛮行を正当化しようとしているのも、これらの表れであろう。)
しかし、古くから国家、民族等の指導者、公人は、少なくとも1648年のウエストファリア条約以来、これらを克服しようと努力してきている。自分たちが属している人種、民族、宗教、国、などの個人的・集団的な対立感情の発露を抑制 し、他の集団との融和を図って、共生・共存することの重要さ、時に軍事的強制力の行 使の必要性、などを説くなどしながら、国際の平和と秩序の維持・増進に取り組ん でいる。
1920年の国際連盟も、1928年の不戦条約も、1945年の国際連合も、日韓国交正常化も、日中国交正常化も、関係諸国の指導者が、時々の大課題に公人とし て、未来志向で、共生・共存、相互理解・尊重思考で取り組んだ英知の結晶である。
現在の諸国の指導者も、過去の一時期にかかる個人的・民族的な憎悪などの感情に発する言動を抑制し、それぞれの過去の偉大な指導者、先祖の業績に倣って 行動してほしい。
戦後70周年の談話では「謝罪の表明」は不要である。「安倍談話」は、過去の談話は踏まえるとしても、国際社会の安全保障環境の激化、諸国の協力・法治 の重要さ、などを説き、未来に向かって、日本が国際の秩序の維持・増進、世界平和 の実現にいかに取り組むかについて、先進国の重要な一国の指導者、国際的公人とし ての決意表明に重点を置いたもの
でありたい。
これを多数の国民が強く支持し、この決意を着実に実行・顕示して行くことこそ、諸国が、内政干渉までする言動の非と相互理解・尊重、法治、未来志向の 利・重要性を悟り、正常な関係を築いて行ける王道であると確信している。
(2015年3月11日)(ほうしゅやま のぼる)