上西 俊雄
日本經濟新聞3月16日號朝刊1面の中央の記事の4段拔見出しは「習氏獨壇場 その先見えず」となってゐた。
擅と壇は字形が似てゐる。
<「擅」漢音セン、呉音ゼン。訓はホシイママ。形聲。事を專一に力むること。故に手扁。轉じて我儘・欲する儘の義とす。>
と手許の字典にはある。
子供の時ドクダンヂャウといったら兄がドクセンヂャウだと教へてくれた。辭書の世界でこの誤讀はよく知られてゐる。新聞社の校閲の人が知らないはずはないと思ふけれど、なぜかういふことが起こるのか。「擅」が表外字であるといふことも關係してゐることは確かだ。
かういふ場合どうするのだらう。表外字だからといふ理由でつかふのをはばかったのなら獨セン場とすべきなのか。それともドクダンヂャウといふ新しい語を認定すべきなのか。
實は、同じ日の夕刊の記事に一瞬とまどった表現があって新聞社に問合せたついでに獨擅場の誤記についても訊ねたところ、新聞社の用語集ではこちらの方が正しいことになってゐるとの返事だったので、おもはず絶句した。
錢湯で國語のことが話題になると、すぐに「全然」といふ語のことを持ち出すひとがある。否定の表現に用ゐるべきところを最近は肯定で受ける人があるといふのだ。
さういふ表現で笑をとったのは漫談家の大辻司郎であった。木星號事件の犧牲者の一人だから、半世紀以上も昔のことだ。その頃から「全然」 は「否定の表現に用ゐるべきところを最近は肯定で受ける人がある」といはれてゐたわけだ。
間違ひかさうでないか。言葉はだんだんと覺えていくのだから、いつまで經っても若い世代は間違ひつづける。獨擅場など、最初から正しく讀むことなでできる人はないのではないかと思ふ。
いや、これは戰後教育を受けた自分の經驗から言ってゐることで、漢字の見かたから教はってゐれば、扁の違ひに氣がつかないはずがない。知らない字なら漢和辭典を引く、さうすれば最初から正しく讀んだかもしれない。當時は漢和辭典などはなかった。
漢和辭典をもらった小學校3年の孫は片端から人の名前の漢字を聞いては引きまくってゐるといふから教へ方如何なのだ。
閑話休題。
天下の新聞が誤記の方を標準としてゐるのは問題だ。これでは、ドクセンヂャウと讀む人の方が間違ひだといふことになってしまふ。
かういふことについて文部省は自分達のやったことではないといふかもしれない。しかし、かういふことはすべて戰後の表記改革にはじまったことなのだ。表音原理主義は共時態が基本、傳統を輕視すること鴻毛の如きものがある。しかし、言葉について規範とすべきものに傳統以外に何があるといふのか。
日本經濟新聞、同じ日の夕刊にの或記事、冒頭に次のやうにある。
<16日附のミャンマー國營紙は、13日に國軍と中國系少數民族コーカン族との戰鬪に卷込まれた中國人が死傷した事件について、ミャンマー政府が遺憾の意を表明したと報じた。
國營紙が事件に觸れるのは初めて。國軍が中國の雲南省政府と事實關係の調査に乘り出すとしてゐる。>
といふ書きだしたけれど、國軍とあるのが何處の軍のことなのかすぐにはのみ込めなかった。
「頂門の一針」第3602號(27.3.18)掲載の宮崎正弘の國際ニュース・早讀み」通卷第4490號では「ミャンマー軍機が越境し中國雲南省に爆彈」とある。
この方がよほど明快だ。
國軍、英語では the national army のやうにいふのかもしれない。
その冠詞の意味を今の英語教育はかつての、いはゆる受驗英語の時代のやうにはきちんと教へてゐないのではないか。
これは國語の問題でもあるが、英語力の問題でもある。3月17日の日經夕刊の社會面見開き中央の5段拔きの見出しは高3英語力中卒程度とある。
英語教育を小學校から始めることが英語力の低下をもたらすであらうといふことは『表音小英和』(3322號「むかし、表音小英和といふ辭典があった」參照)の頃からの主張であるが、ここまでの劣化は考へてゐなかった。
英語の影響で、主語を明確にいふやうになって國語本來の表現の嚴しさが失はれたためのやうに思ふ。主語を顯在化せしめれば、ものごとの記述は明快になることは確かだ。
主語を顯在化せしめない場合、待遇表現をきちんとしなければならない。さうすると話者の立場があらはになる。
官房長官の記者會見で日本政府といふ言ひかたをする記者がゐた。てっきり外國のメディアかと思ったところNHKであった。
沖縄戰集團自決のことが話題になったときに、教科書では日本軍となってゐると聞いて、納得したことがある。
3月18日の日經朝刊の交遊録にわかりやすい例がでてゐた。
<出會ひは1990年代半ば、米フロリダ州で開かれた學會でのこと。私の講演後に彼が歩み寄り「妻が君のファンなんだよ」と笑顏で握手を求めてきた。
大腸癌は歐米人で最も死亡者が多い疾患の一つだ。リヨン大學教授で歐州の癌研究の權威だった彼は、同じく醫師である妻から私の噂を聞いて關心を持ったやうだ。>
妻といふ語が2度出てくるがどちらも同じ人物を指す。しかし、英語であれば最初は MY もしくは THE がつき、2度目は HIS がくるはずだ。國語であれば、最初は和語で妻であるかもしれないが、2度目は夫人といふのが普通であった。かういふ語彙の問題も待遇表現にかかはると思ふ。これが壞れてきてゐる。
國語の劣化は手術ミスのやうに死者がでるものではない。しかし我々の内面にかかはるのだから、より重大な問題ではないか。國語規制の撤廢を訴へる所以である。