2015年03月26日

◆「母あればこそ」

渡部 亮次郎


おそらく生涯を通して忘れることの無い歌は伊藤久男の歌ったNHKラジオ歌謡「母あればこそ」だろう。昭和29年、雪の降り続く秋田から大学受験のため、東京に向けて列車に乗った。朝だった。蒸気機関車が重く汽笛を鳴らして動き出した。

ふと田圃の向こうの家に目をやると小さな母が畑のこちらに出てきて手を振っているではないか。汽車は混んでいて窓を開けるもならず、思わずこみ上げる涙を回りに見られるのを隠すのにいっぱいだった。

家は米単作農家で豊かではない。それなのに私を東京の大学へやると言うのは、4年前、県内一の進学校を1番で卒業した兄を大学にやれなかった後悔を繰り返したくないの一心から。

集落中の農家の主婦たちが織る藁筵(わらむしろ)を買い集めて魚粕を入れる「かます」に仕立てて農協に売ると言う仕事を父ではなく自分でやることで、次男坊は大学にやると言う母。

大胆な決意を抱いて手を振る母。厭でも感傷的になる朝に初めて息子に手を振る母を見て、涙が止まらなかった。

そのまま大学生活が始まった。まだ食糧難の続く東京。あっという間に10キロも痩せた。母の頑張りで月1万円の仕送りは絶えることが無かった。そうやって1年が過ぎようとした冬の夕暮れ、下宿のラジオで伊藤久男が歌った。

「ひとりみやこへ 発つ朝も 泣いて結んだ 靴のひも ああ ふるさとは ふるさとは 母あればこそ 遠くひそかに 想うもの」

旅立ちのあの朝の心境に通じる歌。決意を胸に抱いて汽車に乗った息子、雪の中から手を振る母。まるでそっくり、いやこれは私たち母子を謳った歌ではないのか。

後に調べると、歌は「母あればこそ」と題してNHKラジオ歌謡として放送されたものだった。寺尾智沙作詞・田村しげる作曲。お2人は夫婦で他に「白い花の咲く頃」など多くの名作を世に送り出したヒット・メーカー。私の心を深く打ったあの歌は昭和30年1月24日から放送されたものだったのだ。

「祭り帰りの 丘のみち 声を合わせた わらべ唄 ああふるさとは ふるさとは 母あればこそ いつも優しく 浮ぶもの」

やがて私も中年になり都会で家庭を営むようになり、農村の母とは永年、別れて暮らすようになった。それでも、いや、それだからこそ「母あればこそ」は郷愁の歌としていつも心に流れていた。何とかしてこのレコードを手に入れたいものと思って探したが見つからなかった。

そこでNHKがラジオ第1放送で毎週日曜日の午前10時からはじまる「歌の日曜散歩」にリクエストしたら、すぐ採用された。

何十年ぶりに聞く「母あればこそ」だったが、その番組を聴いた広島の未知の人がテープを送ってきて下さって二重の感激に浸った。やがてレコードも「ラジオの時代」に組まれて発売され入手した。母は2005年の正月、98歳、忽然と逝った。しかし、この経緯は知らずに。

「山ふところの たそがれは 胸に染み入る 雲のいろ ああ ふるさとは ふるさとは 母あればこそ 遠くはるかに 想うもの」。母はこの歌と共にいつまでも私の胸に生きている。(了)

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