2015年05月01日

◆木津川だより「相楽神社」@

〜郷土の式内社〜

白井 繁夫


古代畿内(大和.山代、河内等の国)の地名には、現在も読み継がれている地名が多々あります。私の現住所は「相楽」(京都府木津川市:旧相楽郡木津町相楽)で、「さがなか」と呼びます。

ところがこの「相楽」を、皆さんは「さがなか」とお読みになれるでしょうか。正しく呼称される人に出会う機会が、実は殆んどないのです。

今回の地名を冠した神社も、正しく読んでもらえないでしょう。実は千余年も前から、静かに佇む「重文の式内社」なのです。

木津川(きづがわ)の河畔<下記*>に在り、藤原、奈良、平安時代から現在に至るまで歴史の表舞台で大した話題にもならず、また戦火の被害も受けずに、地元の人々により、法灯が守られてきた式内社です。

そこでこの式内社と、郷土の八幡宮に纏わる事柄を取り上げて見ようと思います。


「木津川流域」は、昔から絶えず洪水の被害を受け、多くの歴史的文物も消滅しました。「相楽(さがなか)神社」も、いつ創建されたかは不明です。伝承では、木津川が氾濫して押し寄せた土砂が堆積して出来た台地の森を、神域とした神社「相楽神社」と呼んだ、と云われています。

神社は藤原京より北へ大和を縦断する西の幹線「下ツ道」を経て、山代国に通じる歌姫街道に接していました。そして、街道の終点にある港:吐師浜と古山陰道や大坂と結ぶ古道(現R163号線)の接点になる交通の要衝「現木津川市相楽清水」の地です。

この地へ九州の宇佐神宮から八幡祭神(三座)武勇の神を請来し、旧相楽村(曽根山、大里、北の庄区)の産土神としてお祀りした八幡宮です。また旅人や水上交通の安全も兼ねた神社だと社伝に記されています。

<*(「木津川」は、三重県の伊賀上野から西へ流れて来て木津の相楽でほぼ直角に大きく流れを変えて北の京都へ向かい、近江(琵琶湖)から流れ来た宇治川などと、八幡市で三川が合流し淀川となって大阪湾に注ぎ込みます。>

この「木津川」が大きく湾曲する左岸に展開した東西2.6kmに亘る大河川港「泉津」が、大和の北の玄関港です。この港の西「吐師浜」の近隣に重文の相楽神社が佇んでいます。

相楽神社の地元の古老は、今でも八幡さんと親しく呼び、拝殿などに「八幡宮の額」が現在も掲げられています。しかし、明治10年、平安時代の法典とも云われる「延喜式神明帳:927年」に記載された名称に基づき、「相楽神社」に比定(定める)されました。

嘗て、相楽神社の本殿を修理した折に、基礎部分の改修で地中より、藤原時代から鎌倉時代に至る瓦片、陶器片や祭祀に使用する祭祀器片などが出土しました。

当神社は相楽遺跡の一角にあり、遺跡からも藤原時代の陶器片などが出土しました。だから、当神社の創建は千数百年前に遡る藤原時代か、もっと前の時代から在ったのか、と色々思いをめぐらせます。

明治時代に入るまでの相楽神社の境内は、現在よりもっと神域面積が広く「泉津」に繋がる歌姫街道に接しており、国内の主要街道や海外にも通じる重要な拠点に鎮座していました。

大和朝廷確立までの戦乱(武埴安彦の反乱、忍熊王の反乱、壬申の乱など)を経て藤原
京、平城京の建設により大いに発展する様子を見つめて来たのが「相楽神社」なのです。

神社の前置きが長くなったので、相楽神社については次回につづりますが、その前に
相楽(さがなか)の地名にもいろいろの説があり、下記に列挙します。

★神武天皇東征の折り、家来として福岡県相良(さがら)の武士が天皇と畿内に入り、定住場所を求めて平群(現生駒市)から南山城一帯を捜しましたが、木津川右岸の現山城町、井手町は地形的に川の氾濫を受けやすいと思い、現木津川市相楽を定住地に選び、「相良村」と名付けた、と云われ、相楽には昔歌があります。

「サガラサムライ ホンザムライ ユウベカワッタキンリンサン」。

要約すると、『サガラサムライ(相良侍) ホンザムライ(本侍:天皇直参の侍)ユウベカワッタ キンリンサン:
侍を捨て、ここの土地を荘園としている禁裏(京の公家)さんに下った。』と云う歌です。 

★『記紀:古事記、日本書紀』垂仁天皇の(後)皇后日葉酢媛命(丹波道主王の女)に纏わる:『古事記』丹波の四女王:丹波の四王女:「四柱を喚(め)し上げき。然(しか)れども、比婆須比売命.弟比売命の二柱を留めて、(その妹王の二人は容貌がとても醜いということで親元へ送り帰された。円野比売はこれを恥じて)山代国の相楽(さがらか)に到りし時に、樹の枝に取り懸(さが)りて死なむと欲(おも)ひき。故(かれ)、其地を号(なづ)けて懸木(さがりき)と謂(い)ひき。今、相楽(さがらか)と云ふ。」

★その他渡来人にかかわる話題

「木津川流域」には渡来人が多く住みつきいろんな技術.文化や出身地を表す地名もあります。

例えば高句麗(高麗)からは越前海岸→近江→山代、新羅からは九州筑前→瀬戸内→難波
地名:上狛.下狛、高麗(こま)寺跡、吐師(はぜ)等々、技術文化の例:(銭司遺跡)奈良時代鋳銭司(造幣局)がおかれ、わが国最古の貨幣「和同開珎」などを鋳造しました。
 
◆古代の朝鮮語:幸処在処(さがあらか)、しあわせなところ、幸福への入口と云う説
◆『日本書紀』欽明天皇三十一年(570)四月条:高麗(高句麗)の使者を迎へる為
  「相楽館:さがらのむろつみ」を建てる。 
◆『続日本紀』大宝元年(701)正月条:「山代国相楽郡令 追広肆掃守宿禰阿賀流
   (ついこうし かにもりすくねあかる)を小位となす。」
 
掃守氏は一地方の郡司ですが、交通の要衝にある相楽神社と関係あり、しかも 外交.貿易にも通じる豪族です。だから、遣唐使の一員に加わったと云う説があります。

★京都府相楽郡(ソウラクグン)と読み、木津川市相楽(サガナカ)と二通りの読み方を現在しています。

@織田信長軍がこの地を通過して、大和へ向う時、信長の地名の問いに対し、家来が「ソウラク」と回答した。
A明治初期に京都府の書記官が地名にフリガナを付けた時、「ソウラクグン」と記載したことから公式になった。とも云われています。
                               (つづく)


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