2015年05月08日

◆産経新聞の「大誤報」

渡部 亮次郎


産経新聞が6日の電子版で厳然と存在した「大福密約」を“大福密約”の存否は永遠にわからない課題になるのか。と堂々と誤報した。無かった従軍慰安婦の強制連行を有ったとほうじてはじなかった朝日新聞は誤報だったが、この産経の記事も誤報だ。その理由は末尾で明らかにするが、まず問題の記事を全文紹介しよう

産経ニュース【政治デスクノート】2015.5.6 12:00更新

<“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は

昭和32年7月、13回忌となる池田勇人元首相をしのぶ会でのシーン。このときの3人は笑顔だが、田中と福田は長年にわたり「角福戦争」を繰り広げ、福田と大平は53年以降、激しい総裁争いを演じた。

昨年夏から、「子・孫が語る昭和の首相」をシリーズで随時、掲載している。4月に福田赳夫を取り上げ(産経新聞は3日付、産経ニュースは6日)、5月の大型連休明けには大平正芳が登場する(産経新聞8日付、産経ニュースは10日夜掲載)。

福田や大平が首相を務めた昭和50年代前半は、三木武夫、田中角栄、中曽根康弘の3元首相を含む「三角大福中」と呼ばれた自民党の派閥間抗争がもっとも激しい時代だった。なかでも、福田、大平をめぐっては、党総裁(首相)の順番を約束したとされる“大福密約”の存在が取り沙汰された。

「大平正芳回想録」などによると、“大福密約”は首相だった三木の後継者をめぐって昭和51年10月27日、東京・高輪のホテルで、福田、大平と、双方の立会人の園田直(すなお。後に福田赳夫内閣の官房長官、外相)と鈴木善幸(大平の後の首相)、それに仲介者役の衆院議長、保利茂の5人が会談する中で作成されたとされ、以下のような文章となっている。

               ◇

 一、ポスト三木の新総裁及び首班指名候補には大平正芳氏は福田赳夫氏を推挙する。

 一、総理総裁は不離一体のものとするが、福田赳夫氏は、党務を主として大平正芳氏に委ねるものとする。

 一、昭和52年1月の定期党大会において党則を改め総裁の任期三年とあるのを二年に改めるものとする。

右について、福田、大平の両氏は相互信頼のもとに合意した。

 昭和五十一年十一月

                ◇
 この文章の後に、保利を除く4人の署名と花押(園田は署名と捺印)がある、というものだった。

“大福密約”について、福田の長男の福田康夫元首相は「そういうものはなかった。ある人が発言したことで一気に、本当のごとく広がっただけだ。福田(赳夫)もはっきりと『ない』と言っていた」と存在を強く否定する。

一方、大平の項で登場する娘婿で首相秘書官を務めた森田一(はじめ)元運輸相は(ネタバレになるが)「書面を見た」と語る。両者は今も正反対なのだ。

そこで、康夫氏が「ある人」と語った人がキーマンになる。同氏は名言こそしなかったものの、園田のことを指しているとみられる。

園田は会談の後、「これじゃ2年後、私たちは大平政権樹立のために走り回るということを約束させられたようなものだ」などと語ったという。しかも園田は、大平内閣で外相に再任され、54年に大平と福田がそろって首相指名選挙に臨んだときは大平に投票した。これにより“大福密約”の存在は定着するようになった。

また、平成16年に週刊誌「読売ウイークリー」(現在廃刊)が「大福密約の覚書」を“公開”し、話題になった。

「読売ウイークリー」によると、「覚書」は園田の次男、園田博之衆院議員が所持していたもので、当時は大平派といわれた宏池会の便箋に「福田・大平了解事項」のタイトルで先の内容が記されていた。

ただ、タイトルから4人の署名まで同じ人物が書いたとみられる。花押も、少なくとも福田については官邸のホームページにあるようなものと微妙に異なるようにみえなくもない。

そこで、博之氏に取材したら意外な回答が返った。

昨年夏から、「子・孫が語る昭和の首相」をシリーズで随時、掲載している。4月に福田赳夫を取り上げ(産経新聞は3日付、産経ニュースは6日)、5月の大型連休明けには大平正芳が登場する(産経新聞8日付、産経ニュースは10日夜掲載)。

福田や大平が首相を務めた昭和50年代前半は、三木武夫、田中角栄、中曽根康弘の3元首相を含む「三角大福中」と呼ばれた自民党の派閥間抗争がもっとも激しい時代だった。なかでも、福田、大平をめぐっては、党総裁(首相)の順番を約束したとされる“大福密約”の存在が取り沙汰された。

「大平正芳回想録」などによると、“大福密約”は首相だった三木の後継者をめぐって昭和51年10月27日、東京・高輪のホテルで、福田、大平と、双方の立会人の園田直(すなお。後に福田赳夫内閣の官房長官、外相)と鈴木善幸(大平の後の首相)、それに仲介者役の衆院議長、保利茂の5人が会談する中で作成されたとされ、以下のような文章となっている。

「あの紙はどこかにいってしまった」

「覚書」は園田の妻で衆院議員だった天光光(てんこうこう)が預かっていたもので、天光光から博之氏に託されたという。

その上で、博之氏はこう言い切った。

「あれを『密約』というのは疑わしい。文章を見ればわかるが、署名が本人のものとは思えない。となれば、文章も本物にはならない」

「覚書」をなくした理由はこうだった。

「大切なものとは思わなかったから」

福田サイドには有利になった感はあるが、博之氏の発言をもって“大福密約”はなかったとも十分には言い切れない。もし、“密約”がないのであれば、園田はなぜあのような「覚書」を大事に保管していたのか。疑問はさらに深まったといえる。

同時に、大事な「史料」を失ったこともわかった。“大福密約”の存否は永遠にわからない課題になるのか。(政治部次長 今堀守通)

【政治デスクノート】2015.5.6 12:00更新
“大福密約”はあったのか 「覚書」所持していた園田博之氏の証言は>

園田氏は福田内閣の官房長官だったが、1年後の内閣改造で、たった1にん留任し、但し外務大臣に鞍替えさせられた。その際、福田首相は官房長官を辞めさせる理由として「あのことを(官房長官番の記者たちにしゃべりすぎた」と言った、と「密約」の存在を認めた。 

園田氏は外務大臣就任にあたって政務担当の秘書官に当時NHK記者だった私を任命すると同時にこのことを私に告げた。なぜならば彼に官房長官就任を薦めたのが私だったから、改造に当たって官房長官を辞める理由を私に説明する「義務」があると考えたからであろう。

密約の書類は園田氏が自家用車のトランクの中の鞄に大切にしまっていたが、ある時私に見せた。用紙は大平派の用箋で、本文は見慣れた鈴木善幸氏の手になるものだった。そういえば園田氏の死後、あのトランクの中から現金1億2000万円が発見されたが、天光光未亡人はその金を息子たちには秘匿し遺産として分けず独り占めしてしまった。

産経の政治部次長 今堀守通氏は園田氏の次男博之氏の言葉を「証言」として持ち出しているが、博之氏は当時はまだサラリーマンであり、かつ継母たる天光光(てんこうこう)と暮らしている親父の家には一度も立ち寄ったことはないし、政局の内情に通じてもいなかった。父親から政局話を聞ける立場でもなかった。したがって彼の「密約」に関する話には信憑性は極めて低い。

一方、福田康夫氏だが、彼もまた当時はサラリーマンであり「密約」を知る立場にはなかった。

その後康夫氏は総理秘書官となるが、父親が密約文書を見せるわけないし、父親として「俺は密約で総理になれたのだ」とは恥ずかしくていえるものでもないでしょう。

このような次第だから、今回の産経新聞政治部次長 今堀守通氏の記事は全くの誤報と断ぜざるを得ない。(2015・5・7)

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