湯浅 博
ゆえあって連休の一日、文京区の本郷界隈(かいわい)を歩いていた。本郷には坂が多く、習いたての小唄を口ずさんで歩くと息が切れる。真砂坂に菊坂、炭団坂、胸突坂、無縁坂と数え上げるときりがない。本郷3丁目から東京大学の赤門前にかけての本郷通りを「見返り坂」といい、ここで江戸に別れを告げた往事の名残らしい。
3丁目の角には江戸のランドマーク、小間物屋「かねやす」ががんばっている。例の江戸川柳「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と詠まれたのは、ここが江戸の内と外の境だったからである。
見返り坂の1本裏手の道に、以前は老舗料理屋の「百万石」があった。創業明治32年の風格ある構えで、庶民にはやや入りにくかったようだ。戦前の自由主義者、河合栄治郎を調べているうちに、この百万石が河合ら自由主義者と大内兵衛らマルクス主義者の確執の舞台であることを知った。
河合は昭和初期に、「左の全体主義」マルキシズムと闘い、やがて戦時下で「右の全体主義」軍国主義をも批判した唯一の知識人だった。著作物の『ファシズム批判』『時局と自由主義』など4冊が発禁処分になり、病を押しながら法廷で壮絶な言論戦に挑んだ。独立不羈(ふき)の闘いの中で、河合は自らの思想に殉じていった。
関西大学名誉教授の竹内洋さんは著書『大学という病』に、東京帝大経済学部の派閥争いが激化し、昭和10年に河合ゼミの一員となった後の京大教授、猪木正道の興味深い証言を紹介している。
当時、大学3年の猪木は、助手の木村健康とこの百万石で鍋物をつついていた。この頃の百万石は、教授や帝大生の夜のたまり場である。そこへ、大内兵衛を真ん中に、舞出長五郎、矢内原忠雄、上野道輔ら左派の教授がやってきた。
この鉢合わせに、猪木や木村はバツの悪い思いで軽く会釈した。すると大内は2人をじろりと見て、「なんだか空気が悪いね」といって、くるりと背を向けたという。他の教授たちも大内にならい、2人を呆然(ぼうぜん)とさせた。
竹内さんは、猪木から「教授たちにこんないやみな行動をとらせることになってしまうのかと、せっかくの酒を沈んだ気持ちで飲んだ」と聞いた。
両派の争いは、雑誌の論戦をも引き起こし、河合はマルクス主義者たちがなぜ軍部を批判せずに、自由主義者を攻撃するのかと嘆いている。そんなドロドロした闘いの舞台だった百万石はいま、20階近い高層ビルに様変わりして、1階で再開したものの、現在は高級焼き肉店に替わっていた。
胸突坂を下る途中に、明治の薫り高い旅館「鳳明館」があり、ここで、「百万石」の今を聞いてみた。帳場の小池邦夫さん(52)は、「本郷にはいま頃、近代化がやってきた。おそらく世代交代で土地を売却してしまうのでしょう」と語る。
それは百万石だけでなく、教授らの住まいが多かった西片町あたりでも、代替わりで移転すると中層住宅ができる。
諸行無常は世の習いである。河合が通った官営第一高等学校も、明治の中頃はいまの東大農学部あたりにあったはずである。一高は昭和10年に、本郷からいまの東大教養学部のある駒場に移っている。卒業生は早死にさえしなければ、おおむね著名人になった。
大正7年に出た『東都新繁昌記』は、東京15区の特徴として赤坂の「華族」に対して、麻布はまだ「虫声」とみていた。本郷の「学帽」に対しては、神田の「書生」として違いを描く。
産経ニュース【東京特派員】2015.5.12