2015年05月20日

◆原発に先鞭つけたは中曽根氏

渡部 亮次郎


第次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止されたが、サンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった。

そこで1954(昭和29)年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二の各氏により原子力研究開発予算が国会に提出された。

日本における原子力発電はこのことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった。これが現在に至るまでの自民党の原子力是認につながっている。

1955(昭和30)年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力3原則」であった。

中曽根氏はこの頃既に衆議院に籍を置いていた読売新聞社主正力松太郎氏に近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

原子力基本法成立を受けて1956(昭和31)年1月1日に原子力委員会が設置され、初代の委員長は正力氏であった。 

正力氏は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。

1956年6月に日本原子力研究所、現、独立行政法人日本原子力研究開発機構が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。

1957(昭和32)年11月1日には、電気事業連合会加盟の九電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された。

中曽根氏は正力派の結成に失敗後、河野一郎派に所属するも、友人渡辺恒雄氏を通じて近付いた実力者大野伴睦氏の推薦で1959(昭和34)年 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。正力氏のバトンを握って原子力発電を後押し。

日本で最初の原子力発電が行われたのは1963(昭和38)年10月 26日で、東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている。

あれから48年。遂に事故は起こった。この間電力会社も通商経済省も「安全」の宣伝はしたが「安全策」は全く行なわなかった。「津波」対策は全くなされなかった。
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