2015年05月22日

◆プーチンの「黒い履歴書」

平井 修一



杉浦敏広氏は伊藤忠商事でロシア方面を担当し、2015年3月退職。現在(財)環日本海経済研究所共同研究員を務めている。

氏の論考「ロシアの理解に必読、プーチン大統領誕生秘話 オリガルヒの操り人形のはずが、糸が切れるや否や・・・」JBプレス5/21は示唆に富んでいた。

<無名のウラジーミル・ウラジーミロビッチ・プーチンがロシア首相・大統領に駆け上る背景は、本人が優秀・有能だからではなく、あくまでソ連邦国家保安委員会(KGB)内部では平凡な人物であり、御しやすいと当時の新興財閥(オリガルヒ)が判断したからにほかなりません。

すなわち、プーチンは“軽い神輿”として担がれたというのが真相です。

もちろん、オリガルヒ側の判断ミスであったことは、その後の事態の推移が証明しています。無名のプーチンを軽い神輿として担いだはずのオリガルヒは飼い犬に手を噛まれ、権力を掌握した有能なプーチン大統領に追放されてしまいました。

KGB第1総局(対外諜報担当)第4課(欧州担当)に配属されたプーチン氏は1985年、KGB少佐として東独ドレスデンに赴任しました。赴任中に中佐に昇進し、私生活では2人の娘が誕生。彼はのちに「ドレスデン駐在中が一番幸せであった」と述懐しています。

1990年に故郷のサンクトペテルブルクに戻り、KGBを辞職したプーチン中佐は、慣例により階級が1つ上がり予備役大佐になりました。一方、プーチン氏と同僚のイワノフ現ロシア大統領府長官は現役時代KGB中将まで昇進し、現在は予備役大将です。

(1917年のロシア革命後に)ロシアでは赤色テロが始まり、秘密警察(反革命・サボタージュ取締り全露非常事態委員会/別名“チェーカー”)が設立されました。

この秘密警察組織はその後何回か名称を変更しましたが、“国家保安委員会”(KGB)、現在の“ロシア連邦保安庁”(FSB)へと名前を変えながらも連綿と続くことになります。

KGBのライバル組織GRU(赤軍参謀本部情報総局)は、トロツキーにより1918年に創設された赤軍の諜報機関です。「日本軍、北進せず」で有名なリヒャルト・ゾルゲはGRUの諜報員であり、KGB所属ではありません。

*プーチン首相・大統領登場の時代背景

プーチン大統領はKGB出身です。これは本人が公表しており、秘密ではありません。

ソ連邦は1991年末に解体されました。ソ連邦解体後の約8年間、エリツィン(1931〜2007年)初代ロシア連邦大統領の政権下、魑魅魍魎とした新興財閥(オリガルヒ)がエリツィン周辺に“ファミリー”として君臨。“民営化”という錦の旗のもと、旧ソ連邦の国家資産を搾取していきました。

その結果、第2期目のエリツィン大統領政権末期の1999年になると同大統領の支持率は1桁台に落ち、翌年6月の大統領選挙ではロシア共産党候補者が当選する可能性が大となりました。

ロシア共産党候補者が大統領ともなれば、旧ソ連邦の資産を搾取した新興財閥の財産は再度国有化されかねません。担ぐ神輿は軽ければ軽いほどよい。焦った新興財閥が白羽の矢を立てたのが、プーチン予備役大佐でした。

プーチンは東独ドレスデン勤務後(1985年〜1990年)、KGBを退職(実態は解職に近い)。傷心のプーチンを迎え入れたのが、当時のサプチャーク/レニングラード市長です。

その後、チュバイス統一電力公社社長やボロージン大統領府総務局長らの庇護を受けて出世の階段を上り始め、ロシア大統領府副長官に抜擢され、KGBの後身たる連邦保安庁(FSB)長官(1998年7月〜99年8月)にまで昇進したのです。

1999年8月9日にステパーシン首相が突如解任されるや、エリツィン大統領から首相代行に任命され、ロシア下院の賛成多数をもって首相に就任しました(同年8月16日)。

ステパーシン首相は大物で、“ファミリー”の言うことを聞かない。ゆえに、大物は解任して、無名の操り人形を首相に任命し、エリツィン大統領の後継者に指名することが伏魔殿の深奥で決定された。

そこで無名の小物が“ファミリー”の操り人形として必要になり、一朝選ばれてエリツィンの後継者に指名された1人の男。それが、その昔“スパイ失格”の烙印を押された無名のプーチン氏だったというわけです。

そのエリツィン大統領は1999年の大晦日、テレビ実況中継で目に涙を浮かべながら大統領職辞任を発表し、プーチン首相を大統領代行に指名。大統領辞任により、大統領選挙は2000年3月に繰上げ実施されることになりました。

急な繰上げ選挙で慌てる有力候補を横目に、大統領選挙ではプーチン大統領代行が当選。同年5月、ロシア連邦2人目の大統領に就任しました。

当時は油価が低迷しており、一時期バレル10ドルを割り込みました。ロシア国庫はほぼ空の状態になり、国民の不満は高まっていきました。

しかし、エリツィン前大統領残滓が政権中枢に居残り、抵抗勢力が跳梁跋扈する伏魔殿の中にあっては、行政改革は遅々として進みません。

そこでプーチン新大統領が“ファミリー”残滓に仕かけた抵抗勢力排除策こそ、レニングラード人脈重用による治安・情報機関の再編成でした。まず、治安・情報機関を身内で固め、次に大幅な内閣改造に着手。エリツィン前大統領“ファミリー”残滓を次々と政権中枢から追放していきました。

*プーチン大統領の権力掌握過程

プーチン首相代行誕生後(1999年8月9日)、無名のプーチン氏が“エリツィン大統領ファミリー”の傀儡として権力の階段を登り始めました。これが上述のごとく、ソ連邦資産を搾取した新興財閥の権益を維持すべく、無名のプーチン氏に白羽の矢がたった背景です。西側の反応は予想通り“Putin, who?”でした。

一方、政治の舞台では困ったことが生じました。エリツィン大統領の政敵は2000年6月の大統領選挙に向け、着々と選挙態勢を整えつつありました。しかし、プーチン氏は無名ですから、大統領選挙に当選する保証はありません。

ルシコフ・モスクワ市長やプリマコフ元首相などの大物が当選すれば、“ファミリー”は息の根を止められてしまいます。

そこで編み出された奇策が、プーチン氏を大統領にするための“ヤラセ戦争”でした。当時報じられた1つの仮説をご紹介します。

当時のヴォローシン大統領府長官は1999年7月4日、仏ニース近郊でチェチェン独立派バサエフ野戦司令官と会談。この会談で両者は翌8月にバサエフ部隊がロシア南部のダゲスタン共和国に侵攻して、ロシア正規軍が反撃・勝利する悪魔のシナリオに合意したと言われています。

この台本通り、チェチェン武装勢力約1500人が1999年8月、ダゲスタンに侵攻。ロシアは直ちに同地に国防省正規軍と内務省国内軍を派遣して、武装勢力の一掃に成功。第1次チェチェン戦争(1994年12月〜1997年)で負け戦の続いたロシア国民にとり、久々の勝利となりました。

国民は勝利の美酒に酔い、無名のプーチン新首相の毅然たる態度は国民の間に瞬時に支持を獲得、名声は鰻登りに急上昇した次第です。

次は、チェチェンが戦場に選ばれました。大統領選挙まで、プーチン人気を維持しなければなりません。そのための手段は、国民に勝利の美酒を飲ませ続けることです。プーチン新首相の号令一下、ロシアの精鋭部隊がチェチェンに侵攻したのです。

1994年12月の第1次チェチェン戦争では新兵を投入したため、ロシア軍はチェチェン武装勢力に負けてしまいました。同じ轍を繰り返せば、逆効果。そこで今回は、最初から下士官・将校を中心とする筋金入りの精鋭部隊を投入。これが第2次チェチェン戦争(1999年9月〜2009年)です。

ロシア軍は着々と戦果を挙げ、プーチン氏はさらに男を上げました。

しかし、プーチン人気は長く続きそうにもありません。そこで編み出されたのが、ウルトラCの大統領年末辞任・繰上げ選挙実施です。

すなわち、エリツィン大統領の1999年大晦日の辞任や繰上げ選挙など、すべてシナリオライターはオリガルヒであり、プーチン氏はオリガルヒの掌中で踊らされていたにすぎません。

モスクワに権力基盤の全くなかったプーチンは、水面下で巧妙に権力基盤の確立・拡大に努めました。1999年12月にはモスクワに「戦略策定センター」を設立して、グレフを中心とするテクノクラートに経済政策を立案させました。また、昔のKGB仲間を順次モスクワに召集し、情報機関の人事を刷新しました。

プーチン氏の大きな転機は大統領選挙です。舞台の筋書きは“ファミリー”にとり予想外の方向に展開しました。決選投票を待たず1回目の投票で当選したプーチン氏にはオリガルヒの選挙資金が不要となり、操り人形のはずのプーチン氏が自立し始めたのです。

“ファミリー”の利益を代弁するヴォローシン大統領府長官のシナリオは完全に狂い、ヤラセのはずの第2次チェチェン戦争は“ファミリー”の制御外の展開となっていきました。

追放されたオリガルヒの代わりに台頭したのが、プーチンのサンクトペテルブルク/レニングラード人脈、柔道仲間(ローテンベルク兄弟など)や友人たち(チムチェンコなど)です。

そして、プーチン大統領最大の支援材料になったのが油価動向です。プーチンが大統領就任後、油価は上昇開始。国庫歳入に占める石油・ガス税収は、プーチン氏が大統領就任時の約2割から現在では5割超になりました。

逆も真なり。現在の油価低迷局面は、プーチン大統領にとり最大の試練と言えましょう。

プーチン大統領の周囲には現在、大別して4つの派閥が存在します。しかし、プーチン派閥とは言え烏合の衆ですから、派閥同士の拮抗・対立もあります。この意味で、プーチン大統領が突然いなくなれば、派閥同士の抗争は表面化することでしょう。

第2次大戦後、英チャーチル首相はソ連の政治家を評して曰く、「ソ連の多くの政治家は、絨毯の下で足を蹴りあっている。誰が誰の足を蹴っているのか、我々外国人には永久に分からないだろう」。

誰が誰の足を蹴っているのか分かるようになればプーチン政権の透明性が増し、世界の民主主義勢力からも認知されることでしょう。しかし、クレムリンの奥の院が透明になれば、世の中のクレムノロジストは失職してしまうかもしれませんね>(以上)

「クレムノロジスト」とはクレムリンの情報を追いかけ分析する専門家ということだが、プーチンを英雄にしたのは「ヤラセ戦争」だったというのもその手の消息筋の情報だろう。

「戦争に勝てば指導者の人気は急上昇する」から習近平もそれを狙っているのだろう。

オリガルヒにとって「軽くてパー」のはずのプーチンが反旗を翻し、やがてオリガルヒは黒帯の体固めで制圧されていく。

<プーチン大統領就任にともない、政権と新興財閥の蜜月状態は、変化が生じることとなった。プーチンは、テレビを始めとするマスメディアを保有し政治的影響力を行使して、政権と対立関係にある新興財閥に対しては抑制策を取った。

2000年6月13日、ロシア検察当局は、ウラジーミル・グシンスキーを詐欺などの容疑で逮捕した。これを手始めとして、7月11日には、ガスプロムに対しては、財務関係資料提出を要求。ルクオイルに対しては、脱税容疑で捜査を開始。インターロスに対しては、ノリリスク・ニッケル株取得の際の違法性を指摘するなど、矢継ぎ早に捜査を展開していった>(ウィキ)

今や大企業はプーチンに逆らえない。政敵は殺される。プーチンは独裁者になった。

経済制裁、油価の低落、ルーブル安という“国難”を乗り切れば、プーチンはまたまた男を上げ、生涯大統領すら可能になるかもしれない。プーチンの支持率は高いし、国民は忍耐強い。経済も底を打って反転上昇中だという観測もある。

“食えない男”プーチンはまだまだしぶとく世界を困惑させるのだろう。ため息が出る。(2015/5/21)

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