2015年05月31日

◆日本人の心の清明さはどこから

加瀬 英明



都内は、櫻が満開だった。

私は仕事柄、ワシントンに通っているので、ポトマック河畔で百数十本もの櫻が爛漫と咲いているのを、何回も見たことがある。たしかに美しいが、それだけのことだ。

尾崎行雄東京市長が大正年間に日米友好を願って、贈った櫻だ。だが、同じ桜であっても、心の国である日本に咲いていないと、心の風景にならないのだ。

日本にはどこへ行っても、日本の心が空気のなかを、微粒子のように飛んでいる。

櫻はいさぎよく散るから、日本人の心を表している。清く、すがすがしいさまを、潔(いさぎよ)いという。

神道をひと言(こと)でいえば、心の清明を求めることである。仏教に仏典があり、同じ神を拝んでいるユダヤ・キリスト・イスラム教に聖書と『コーラン』があるが、神道には従うべき戒律も、理論も、教典も、祈祷書も存在していない。神道は宗教だといえない。

 清明な心は櫻と同じ潔さ

だが、清明な心といえば、日本人ならあらためて説明されなくても、誰でも分かる。

日本では人が清明な心を持つことが、期待されている。

神道という言葉が日本語の仲間入りしたのは、かなり最近のことだ。仏教が7世紀に入ってくる以前には、名前がなかった。仏教と区別するために、古道とか、神道と呼ばれた。

キリスト教、イスラム教、仏教が、信徒の数からいって、世界の3大宗教といわれる。

 神道は信じるものでなく感じるもの

神道とどこが違うのかといえば、この3つの宗教は人が文字を知るようになってから、生まれた。そして、文字が論理をもたらした。

宗教は論理であって、教えを信じなければならない。神道は文字がなかった時から存在したから、宗教ではない。神道は信じるものではなく、感じるものだ。

7世紀に日本に仏教と儒教とともに、論理がもたらされた。中東やヨーロッパでは論理が、精霊信仰である多神教を圧倒したが、日本では神道が大きな力を保ち続けた。

 神道は清く正しく美しいを奉ずる

神仏混淆といっても、神道のうえに仏教が加わったのだった。神道は論理ではないから、言挙げしない。そこで今日でも、私たちは国民性として、寡黙で、論争を好まない。

宝塚少女歌劇団のモットーの「清く正しく美しい」から、「正しい」を除くと、神道になる。論理は善と悪、正と邪を分けるが、神道は感性によっているから、清いか、穢(けが)れているかを尺度とする。

だから、自分に都合のよい論理を振り翳(かざ)して、争うことがない。論理は詭弁をもたらすから、危険きわまりない。

 日本は開闢以来女性が優れていた

日本は開闢(かいびゃく)以来、女性が優ってきたという、大きな特徴がある。

天照大御神は女神であられるが、朝鮮半島、中国からヨーロッパまで、神話の最高神がすべて男性神である。

私の母方の祖母の鶴は、会津若松の家老の孫として生まれた。鶴の祖父母は、鶴ヶ城と呼ばれた一の松城が、落城した時に自害した。

 心に心を恥じるとは

私は鶴に可愛いがられて育ったが、今から思うと、日本人としての生きかたを教わった。

鶴は小柄だったが、いつも凛として、会津の武士の志(こころざし)を持っていた。おそらく母から教えられたのだろうが、「心に心を恥じる」「自分の心を証人として、生きなさい」といった言葉を、私に伝えた。

 江戸研究学会の発足 

しばらく前に、江戸開府400年の年が巡ってきた。日光東照宮が記念事業として、江戸研究学会をつくった。私が以前から、江戸270年は庶民が世界でもっとも恵まれた時代だったと書いたり、講演をしたりしていたので、会長を引き受けさせられた。

江戸時代には、各藩にそれぞれ藩校があって、武士階級の息子たちが学んだ。庶民の子のためには、全国にわたって2万あまりの男女共学の寺子屋があった。ところが、武士の娘のためには、学校がなかった。家において母親から躾けや古典を学んだが、教養が高かった。

 心の魂は性別を超えて基盤

鶴は私が女の子をばかにすると、「女であっても、男女形がちがっても、同じ魂を持ちなさいと、教えられて育ちました」といって、たしなめられた。心において、男に負けなかった。

それでいて、鶴はいつも男を立てた。明治の女は、そうやって男を操っていたのだ。

人にやさしくとか、信義信用を守れ、心を証人として生きよという徳目は、武士だけではなく、庶民の1人ひとりが大事にしていた。日本は神々とともに、生きてきた国なのだ。

4月に、学校歴史教科書を取り上げた座談会に、参加した。

 夫が権威で妻が権力を把握

教科書が歴史と天皇をどのように扱うべきか、話題になった。

すると、元文科大臣のN先生が「権威としての天皇と、権力を担う政権に分けた、日本の知恵はすばらしい」といわれた。私が「日本の夫婦がそうです。夫が権威で、妻が権力を握っている」というと、全員が爆笑した。

 母なる言葉に無限の広さと深さあり

日本語では、祖国は母国、主家(おもや)は母屋(おもや)だ。父国、父屋とはいわない。母校、母艦をはじめ、母を連想させる言葉が多い。なぜ、母堂というのに、父堂がないのか。

トラックや、乳母車にかけるホロは「母衣(ほろ)」と書くが、もとは武士が背後から飛んでくる矢から首筋を守るために、兜のうしろにかける鎖網を意味した。戦場に立つ時に、母によって守られている安心感が、あったのだろう。

日本では徳川時代に入るまで、夫婦(めおと)茶碗は女男(めおと)茶碗と書かれた。だが、夫婦を「めおと」と発音できるはずがない。江戸期に入って、男が空威張りをするようになって、夫婦(めおと)と書くようになった。

古典では「女夫」と書いて、「めおつと」と読む。夫婦のことだ。女男(めおと)、妻男(めおと)、女夫(めおと)とも、書かれた。いまでも、和船に使われる釘は、女男釘(めおとくぎ)と呼ばれている。

 強者は耐え弱者が甘えて我儘

西洋は、男上位の社会である。日本で男が我儘なのに対して、西洋では女性が我儘だ。だが、強者は耐え、弱者が甘えて我儘になる。

アメリカとヨーロッパでは、夫が権威と権力の双方を握っている。漫画『ブロンディ』では、妻のブロンディが夫のダグウッドに、やれ何がほしいといって、そのつど金(かね)をせびる。

 真の女性こそ未来への絆

アメリカでは来年の大統領選挙へ向けて、与党の民主党の大きな公約が、「女性のための戦い(ウォア・オン・ウィメン)」だ。女性をDV(家庭内暴力)や、学園のキャンパスにおける男子生徒の性的暴行から、守ろうというものだ。

ユダヤ・キリスト・イスラム教は同じ神を拝む一神教だが、徹底的な女性蔑視が行われている。イエスは母のマリアを一度も「母」と呼ばずに、ただ「女」といっている。女が男装をしたり、男として振る舞うのは、大罪だ。

日本には、静御前、巴御前、北条政子をはじめとして、薙刀(なぎなた)を振って戦う女性が、登場する。ジャンヌ・ダルクはイギリス軍に捕らえられて、男装し、男まさりに戦った罪によって、魔女裁判にかけられて、火焙りに処せられた。

奈良平安時代には、女性で地方長官である国造(くにのみやつこ)が珍しくなかった。

もっとも、西洋では近年に入ってから、「ウーマン・リブ」によって、女性が男に伍して働くようになった。

 和の心こそ女性的な心の国

女が心を用いるのに対して、男は理を弄(もてあそ)ぶ。母親はどの子もやさしく包んで、守るが、父親はできる子と、できない子を競わせる。

日本は女性的な心の国である。女性が暴力を嫌うために、和を大切にしてきた。

縄文時代の遺跡から出土する骨には、他国の同時代の遺跡と較べて、戦い傷のある骨がはるかに少ない。平和な民であってきたのだ。

男が最高神である国は、自分勝手な正義を振りかざして、戦いを好むが、日本は違った。

天照大御神は女神であられた。もし、最高神が男神だったとしたら、日本民族が受け容れたことだろうか。私たちは神々であれ、仏であれ、母性的なやさしさを求める。


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