渡部 亮次郎
半世紀前の話だが、それだけに 先の短い身だから、私が居間ここで証言しておかないと記録に残話になる。昭和40年、自民党の実力者河野一郎は「中曽根クンを河野派から除名する」と 爆弾発言を私にしたまま、翌朝、中目黒の私邸で倒れ、8日に死んでしまった。
だから「中曽根氏 河野派から除名」という大特種はならなかったわけだが、もし現実のものとなっていたら、中曽根政権はあった老化、と考えたりする。中曽根さんにこの話をしたことはない。
<「中曽根君を除名する!」
渡部亮次郎
河野一郎さんの命日がまた巡って来る。7月8日。昭和40(1965)年のこと。死ぬ2日前の夕方、東京・麻布台の事務所を訪ねると、広間のソファーで涎を垂らして居眠りしていた。
黙っていると、やがて目を覚まし、バツが悪そうに涎をハンカチで拭いた。何を考えたのか「従(つ)いてき給え」と歩き出した。
派閥(河野派=春秋会)の入っているビルは「麻布台ビル」といったが、その隣に建設省分室と称する小さなビルが建っていた。元建設大臣としては殆ど個人的に占拠していたようだった。
向かった先はそのビルの4階。和室になっていた。こんなところになんで建設省のビルに和室があるのかなんて野暮なことを聞いてはいけない。
「ここには春秋会の奴らも入れたことは無いんだ」と言いながら「今度、ボクはね、中曽根クンを春秋会から除名しようと決めた。奴はボクが佐藤君とのあれ以来(佐藤栄作との総裁争いに負けて以来)、川島(正次郎=副総裁)に擦り寄っていて、数日前、一緒にベトナムに行きたいと言ってきた。怪しからんのだ」
「河野派を担当するならボクを取材すれば十分だ。中曽根なんかのところへは行かないのが利口だ」とは以前から言っていたが、派閥から除名するとは只事ではない。
思えば河野氏は喉頭癌のため、退陣した池田勇人(はやと)総理の後継者と目されていた。しかし、河野側からみれば、それを強引に佐藤栄作支持に党内世論を操作したのは誰あろう川島と三木(武夫)幹事長だった。
佐藤に敗れた後も無任所大臣(副総理格)として佐藤内閣に残留していたが,政権発足7ヵ月後の昭和40(1965)年6月3日の内閣改造で河野氏が残留を拒否した事にして放逐された。
翻って中曽根康弘氏は重政誠之、森清(千葉)、園田直と並ぶ河野派四天王として重用されてきた。それなのに川島に擦り寄って行くとは。沸々と滾る「憎悪」をそこに感じた。その頃は「風見鶏」という綽名は付いてなかったが、中曽根氏は元々「風見鶏」だったのである。
そうした隠しておきたい胸中を、担当して1年にもなっていないかけだし記者に打ち明けるとは、どういうことだろうか。
7月6日の日は暮れようとしていた。「明日は平塚(神奈川県=選挙区)の七夕だからね、今度の参議院選挙で当選した連中を招いて祝勝会をするからね、君も来なさい。ボクはこれからデートだ、では」
それが最後だった。翌朝、東京・恵比寿の丘の上にある私邸の寝室で起きられなくなった。日本医師会会長武見太郎の診断で「腹部大動脈瘤破裂、今の医学(当時)では打つ手なし」。翌8日の午後7時55分逝去した。享年67。武見は{お隠れになった}と発表した。
当日、奥さんに招かれてベッドの脇に居た私は先立つ7時25分、財界人(大映映画の永田雅一,北炭の萩原社長,コマツの河合社長らが「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えだしたのを「死」と早合点し、NHKテレビで河野一郎を30分早く死なせた男として有名になる。
死の床で「死んでたまるか」と言ったと伝えられ、「党人政治家の最期の言葉」として広くこれが信じられてきたが、河野洋平氏によると「大丈夫だ、死にはしない」という穏やかな言葉で家族を安心させようとしたのだという。これも犯人は私である。
河野氏が死んだので中曽根氏は助かった。「河野精神を引き継ぐ」と1年後に派閥の大半を継承。佐藤内閣の防衛庁長官になって総理大臣への道を歩き始め多。風見鶏は幸運の人でもある。
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河野 一郎(こうの いちろう、1898年(明治31年)6月2日生まれは、自由民主党の実力者。死後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。河野は神奈川県選出の国会議員のなかでは実力者であり、県政にも強い影響力があったので神奈川県を「河野王国」と呼ぶ向きもあった。
参議院議長をつとめた河野謙三は実弟。衆議院議長であり、外務大臣、自由民主党総裁、新自由クラブ代表をつとめた河野洋平は次男。衆議院議員河野太郎は洋平の長男である。
建設大臣時代、国際会議場建設計画があり、選挙区内の箱根との声が地元よりあがったが、日本で国際会議場にふさわしいところは京都である・・・との考えで京都宝ヶ池に国立京都国際会館建設を決めた。しかし、完成した建物を見ることなく亡くなっている。
地元よりの陳情を抑えての決断は現在の政治家にもっと知られてよい事例であろう。
競走馬のオーナー・牧場主としても有名。代表所有馬に1966年の菊花賞馬で翌年の天皇賞(春)で斃れたナスノコトブキなどいわゆる「ナスノ」軍団があった時代もある。
河野は担当大臣として東京オリンピック(1964年)を成功に導いたが、市川崑の監督した記録映画に「記録性が欠けている」と批判して議論を呼び起こした。
酒を全く飲めない体質だったが、フルシチョフにウォッカを薦められた際に、「国益のために死ぬ気で飲んだ」とよく言っていた。
1963年、憂国道志会の野村秋介により平塚市の自宅に放火される。その日は名神高速道路の開通日で河野はその開通式典でくす玉を引いている。
三木武夫が大磯の吉田茂の自邸に招かれた際、応接間から庭で吉田が笑っていた様子が見え「随分ご機嫌ですね」とたずねると「三木君は知らんのか! 今、河野の家が燃えてるんだよ!」とはしゃいでいた。「罰が当った」と吉田周辺はささやいたと言う。二人は互いを不倶戴天と言っていた、終生。