2015年06月05日

◆井尻千男氏、6月3日急逝

宮崎 正弘
 

<平成27年(2015)6月3日(水曜日)通算第4564号> 

井尻千男氏、急逝

評論家で前拓殖大学日本文化研究所所長の井尻千男(いじりかずを)氏が6月3日、急逝された。

氏は評論家、コラムニスト。拓殖大学名誉教授、拓殖大学日本文化研究所顧問(前所長)。また三島由紀夫追悼の「憂国忌」の代表発起人のひとりとして、憂国忌では「武士道の悲しみ」で記念講演のほか、シンポジウムに何回か出席され、烈烈たる憂国の弁を奮われた。

氏は立教大学文学部日本文学科で村松剛の薫陶を得た。

入社した日本経済新聞社ではコラム『とじ糸』『活字のうちそと』を執筆、編集委員を経て1997年に退社した。以後は拓殖大学教授、日本文化研究所長を務め、拓殖大学で一般人を含めての公開講座「新日本学」を主宰
した。

季刊誌『新日本学』には錚々たる保守系文化人が執筆した。また1997年から2002年まで『週刊新潮』にコラム『世間満録』を連載し好評を得た。小堀桂一郎、入江隆則両氏を中軸に4月28日の主権回復記念日を祝日として制定しようと孤軍奮闘、毎年4月28日に「主権回復記念国民集会」を主催された。ことしも病苦を押して、病院から車椅子で会場に駆けつけられ振り絞るような情念で主権の重要性を訴えた。

氏は数寄者としても著名で、宏大な長屋門もある自宅の庭に遠州流の茶室を設計し、毎年春の桃を見る会では友人らを招待して茶を振る舞った。

2014年7月に入院し、8月に一時退院してヨーロッパに旅行。帰国便で病状が悪化し、入退院を繰り返してきた。合掌。
    
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 通夜、葬儀のご案内です
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  通夜 6月6日(土曜) 午后6時―7時 
  葬儀 6月7日(日曜) 午后1時
  場所 山梨市下井尻1095 井尻邸
  喪主 井尻佳世子
  葬儀社 042−626−6440
  上記葬儀社では生花の手配をします。
 
 井尻千男氏への追悼 宮崎正弘

初めて井尻さんと会ったのは30年以上前である。村松剛さんを囲んで六本木で飲み会があり、ほかに当時「諸君!」編集長だった白川氏と中川八洋氏。田久保忠衛氏もいたような記憶がある。記憶違いかも知れない。フランスのワインを相当飲んだ。

まだ井尻氏は日本経済新聞の文化部に在籍しておられ、毎週コラム「とじ糸」を書かれていた。その辛辣な、それでいて歯切れの良い文章は行間にも蘊蓄がただよい、ファンが多かった。

そうだ、村松氏は当時、その新聞に「醒めた炎」を連載されていた。

酒席で何を議論したかはさっぱり忘れている。小生は酒席となると論議よ
り酒の方だから。

ほどなく、様々な会合で顔を会わせるようになり、しかも氏は酒が殆ど飲めないが、タバコはショートピースをこよなく愛され、

「それ三島由紀夫が好きだった銘柄です」と言うと、嬉しそうにして、こう言った。

「じつはあの日(昭和45年11月25日)、三島さんに電話して日経の新春特集のインタビューの段取りをすることになっていた」。

三島は井尻さんに「猛烈に忙しいので、11月25日に電話をしてくれ」となにか、悪戯のように言っていたのである。

その日、昼前に神田を歩きながら、井尻さんは、どういう電話にしようかと思案していたら、三島自決のニュースが飛び込んできたと井尻さんはつけ加えるのだった。

爾来、憂国忌の発起人に加わってもらい、何回か講演をして貰った。

また日経を辞めて、拓殖大学教授になり、日本文化研究所設立に尽力され、機関誌(季刊『新日本学』。当初は『日本文化』だった)の編集・発行も精力的に開始された。

毎月どころか、当時は毎週一回という『日本学講座」を開講、小生も必ず講師陣に加えられ、あげくには季刊雑誌にも何本か、書かされた。

この講座には呉善花、黄文雄、藤岡信勝、田中英道、小堀桂一郎、藤井厳喜の各氏らが常連となり、終わると必ず茗荷谷の居酒屋に集まって気勢を挙げる。

殆ど毎回、小生も出席したが、この聴講生のなかから石平ら新人が誕生したのだった。

また同時並行して4月28日に『主権回復国民会議」を九段会館で開催され、小生も過去に2回、講話を求められて出席したが、入江隆則氏、小堀桂一郎氏の3人で立ち上げ、各団体に協力を求めた。

「『春の憂国忌』と名付けましょうか?」と小生が提案したほどに年中行事と化した。

そしてまた春に山梨の井尻邸にあつまって、桜と桃と梅をめでる(三春)会を四月の土曜に主宰され、初回から参加した。この意趣な、数寄屋風の催しには、小田村四郎、竹本忠雄、西尾幹二の各氏がよく参会されて、井尻さんの先祖の話を聞いた。

六角佐々木氏の流れをくむご先祖が、戦国末期に山梨へながれつき、地名の井尻から、井尻性と変えたという謂われを伺うとなるほど宏大な屋敷、長屋門、鯉が数百匹もいるかと思われる池のある日本庭園。そして茶室。豪族の名残をとどめる邸宅の風情は、主張を譲らない生硬な氏の性格を代弁しているのかも知れないと思った。

氏の文章は第一に高潔であり、何を論ずるにせよ、緊張が漲る。底流にあるのは尚武の精神、武士の心構えであり、そして古き良き時代の価値観を喪失した現代日本への哀惜に他ならなかった。

想い出は走馬燈のように駆けめぐる。

一緒に台湾へ行ったときは李登輝さんとも会ったが、拓殖大学の育ての親でもある後藤新平の銅像をみて、「写真を撮ってくれ」と頼まれたり、村松剛さんの10回忌では司会の大役をこなされ、数年前に奥さんを亡くされたおり、あの広い庭園が通夜会場となって、無数の生花がが並んだ。

あるとき、氏の出版記念会をしかけたが、茶立てと和服出席歓迎にこだわった。小生の出版記念会でも祝辞を述べて貰ったが、辛辣な批判はなかった。

昨年の櫻を見る会でも、普段と変わらぬ風情で都市建築設計など持論を展開され、小生は松本へ行く列車の時刻となったので中座したが、ほかの参加者にあとで聞くと上機嫌だったらしい。ことしの櫻を見る会、小生どうしてもベトナムに行っており、珍しく欠席となった。

入退院のことは聞いたいたが、なにか虫の知らせだろうか、五月末に、山梨の病院に見舞うと懐かしそうにしっかと手を握って、一時間近く喋りつづけた。それから10日後に訃報に接した。合掌。
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