2015年06月16日

◆私の「身辺雑記」(230)

平井 修一



■6月11日(木)、朝は室温23度、薄曇り、フル散歩。

早朝から畑ではオッサン2人が働いていた。キューリが収穫期を迎えたのだ。一方で規格外の小さなカブは放置されており、やがては堆肥にされる。

勿体ないなあ、味噌汁や漬物にしたら旨そうだなあと思うが、野菜は生産・出荷段階で10%、流通・加工段階で10%、消費段階で10%のロスが出ていると思う。

100キロ生産しても、それが90キロ、81キロ、お腹に入るのは73キロとか。結局27キロはゴミになるのだろう。飼料になるものもあるかもしれない。

<食品残さ飼料とは、食品残さを原料として加工処理されたリサイクル飼料のこと。農水省は現在の飼料自給率23%を35%へ上げていくことを目標に掲げ、行政機関、研究機関、民間事業者、畜産事業者等が連携し、研究や情報交換を進めながら、推進活動に取り組んでいる>(ウィキ)

日本ではほとんど話題になっていないが、今、ミラノ国際博覧会が開かれており、テーマは「地球に食料を、生命にエネルギーを」。日本館の案内にはこうあった。

<日本国内における年間の食品廃棄物の発生量は、食用に仕向けられる食品の量の2割にあたる約1700万トン。

そのうち、本来はまだ食べられるのに、売れ残りや規格外品、食べ残しなどによって捨てられる食品のことを「食品ロス」といいます。日本で発生する「食品ロス」は年間500万〜800万tにのぼります。

食料品店・飲食店などから発生する食品廃棄物を回収・加工し、養豚の飼料として出荷する企業があります。神奈川県相模原市に本社をおく、(株)日本フードエコロジーセンターです。

原料となる食品廃棄物は、食品メーカーの工場から出る製パンくずや製麺くず、飲食店から出る米飯や牛乳、スーパーなどの小売店から出る野菜くずなど。

近郊の工場や店舗約180カ所から専用の保冷車で回収し、リサイクル工場へと搬入します。回収した食品廃棄物は水を混ぜて殺菌・乳酸発酵を行い、リキッド発酵飼料(液状飼料)として豚舎へと出荷します>(以上)

食品ロス率が30〜50%! 想像以上だ。世界中では8人に1人が栄養不足だというのに。畑に放置された野菜を見て「欲しがる人にあげたらいいのに」と思うが、そうなると買う人が少なくなるから難しい。資本主義市場経済はムリ、ムダの多い、やっかいなシステムだ。

わが家は小生と犬が残飯処理しているからロス率は2%あるかどうかのレベルだ。工夫もしており、たとえば寄せ鍋。まずは水炊きにしてポン酢などで楽しむ。翌朝は醤油を入れてお吸い物にする。昼はうどんのタレにする。夜は味噌を入れて雑炊にする。リメイクの繰り返しだ。こうすると無駄がない。

学校や病院の給食、ホテルの宴会料理・・・ずいぶんと食べ残されるのだろう。神経質な人は賞味期限・消費期限にこだわって、それを過ぎると平気で捨てたりする。肉などはとりあえず使う分以外は冷凍にするが、冷凍にしても消費期限にうるさい異常な人、ほとんどビョーキの人もいる(潔癖症? 周囲を見ると、親がビョーキなら子供もビョーキ)。勿体ないことだ。

自分の味覚、嗅覚などで「まだ食べられる」とか判断するのが当たり前なのに、「どんどん捨てさせよう」という魂胆のメーカーの設定した賞味・消費期限に踊らされている。中2坊主、小4児童は自主的判断ができないのだ。学歴は関係ない、生きる上での知恵が足りないのだ。

そのくせに不都合があると中2テレビに煽られて「社会が悪い、政治が悪い、自民が悪い、安倍が悪い」と難癖をつける。この手のアホとも共生しなくてはならないのは人類の悲劇だ。

山本夏彦翁曰く「この世は生きるに値しない」。そう思いつつも「慣性の法則」で生きている人は結構多いだろう。実は小生を含めて皆そうだ。

■6月12日(金)、朝は室温25度、小雨、散歩不可。

夕べは長女が「23時まで会議」のために集団的子育て。会計士の婿さんは株主総会ピークの今は始発出勤/終電帰宅、休日出勤は当たり前、泊まり込みもしょっちゅうのようだ。人の3倍働いて給料は2倍。割が悪いが、まあこんなものだ。楽して金は稼げない。仕事があるうちが花だ。

弁護士も以前は花形職業だったが、今はかなりブラック商売になってしまったようだ。救いようのない斜陽業種という感じ。供給過剰なのだ。在香港キャストグループの代表弁護士・村尾龍雄氏の論考「弁護士業界の苦境」6/11にはかなり驚いた。

<弁護士である私が日本の弁護士業界の苦境を語ることは格好の良いお話ではありませんが、「その時々で気付いた問題を率直に書く」というポリシーに基づき、私見を述べます。

今後の弁護士業界の見通しについて、半永久的に苦境が継続すると考えています。これには構造的な問題がありますので、私見を支えるロジックを述べます。

まず、物の価値が需要と供給で決定されるのと同様に、人の価値も実は需要と供給で決定されます。この道理は弁護士についても同様であり、弁護士の価値はクライアントの需要とこれに応えることができる弁護士サイドの資質、能力、識見、経験等の諸要素から構成されるサービスクオリティ(以下「サービスクオリティ」)の供給との関係で決定されます。

しかし、1995年当時、1万5000人規模でしかなかった弁護士数は2015年現在、3万6000人規模にまで膨れ上がりました。

ところが、弁護士の本来的業務であるはずの民事事件(行政事件を含めます)・家事事件数は、平成18年(2006年)最高裁判決を契機として一時急増したノンバンクに対する過払い金返還請求訴訟を除けば、全く伸びを示していないばかりか、民事事件数はむしろ減少傾向を示しています。

その結果、過半数の都道府県で弁護士1人当たりの民事事件・家事事件数は10件に満たないという惨状です。

私が独立直前に先輩弁護士から聞かされたのは、訴訟と訴訟以外の相談案件が常時50件はなければ事務所維持は覚束ないということでしたが、訴訟の平均数が10件に及ばないのであれば、この水準をクリアできる弁護士は決して多くないでしょう。

そうすると、望まずして何時までも事務所から独立できないか、即独を含めて独立したとしても私が弁護士になった当時存在すらしなかったノキ弁(無給でボス弁の軒先だけ借りる弁護士)やケー弁(事務所を持たず、携帯電話だけで走り回る弁護士)という新たな類型が生まれる悲劇的な結果が生じます。

こうなりますと、貧すれば鈍するのたとえの如く、例えば交通事故の損害保険に付随する弁護士保険を悪用して、あり得ない高額請求をしようとする弁護士が急増することになるわけです(日経新聞電子版2013年10月7日記事参照)。

弁護士数が多過ぎるアメリカでは救急車を追いかけて交通事故の被害者に弁護を持ち掛けるambulance chaserという存在が私が新人弁護士の頃、弁護士としての品格を欠く最たる例として指摘されてきました。

当時この存在を「日本ではあり得ない」と苦笑していた日本の弁護士界に20年後これほど多数のこれに類する存在が生まれるとは誰も想像すらできなかったことでしょう。

供給が急増するのに需要が減少する場合、業界を問わず、このような結果が起きることは必然です。現在、急増する弁護士が過去では考えられないほど必死に営業をしているのに、需要が明らかに不足しているため、高齢の一流弁護士でも訴訟だけでは事務所維持が容易ではなくなり、社外取締役や社外監査役の仕事を求めて奔走するのは業界の苦境を端的に物語っているのです。

こうした中で生き残っていくためには「需要があるのに、それを処理できる人がほとんどいない」という高度に差別化された専門分野を身に付けるしかありません。

しかし、そのような専門分野を身に付けるには優れた師匠と難しい案件に恵まれなければ難しいですし、おまけに時期にも恵まれなければなりません。

例えば私の場合は出身母体である大江橋法律事務所の6名の師匠に恵まれ、1996年に中国に赴任した当時、上海常勤は私だけでしたから、ありとあらゆる難しい中国案件をこなす機会に恵まれました。

おまけに中国法に興味を持つ弁護士は絶無に等しかったので、時期にも大いに恵まれました。その結果、高度に差別化されたということまでできるかどうかは別として、税務顧問先などまで含めれば中国関係だけで300社を優に超える顧問先を抱えることができています。

それでも現在、中国法分野で活躍する日本の弁護士は急増していますし、日本語を流暢に話す中国律師も急増しています。会計士や税理士でも優れた方々が競争者に多数います。ですから私も日々研鑽を重ねなければ、厳しい競争環境の中で到底生き残ることは不可能だという危機感を常時抱いています。

このように弁護士業界の未来は、解消が不可能な程度に乖離が拡大した需要と供給のアンバランスの構造的要因のために、過去にないほどに暗澹たるものとなっているのです。

法律家を巡る日本固有の構造的問題も弁護士業界の苦境に拍車をかけます。

日本固有の構造的問題とは、弁護士人口が1995年の約1万5000人から2015年の約3万6000人まで20年間で約2.4倍に膨れ上がったという分析は実は正しくなく、「日本で実務法曹(法律家)は何人いるのか?」と問われれば、「10万人を遥かに超えている」が回答になため、実質的な競は10万人以上の莫大な競争者が少ないパイを奪い合う構造を形成している、というものです。

すなわち、税法を取り扱う「税理士」は7万4945名(2015年5月末現在)。もともとは不動産登記や商業登記が専門のはずですが、それだけでは到底食えなくなったため、簡易裁判所の訴訟代理権を獲得し、弁護士法に抵触しない範囲の様々な法的アドバイスを行う「司法書士」は2万1658名(2015年4月1日現在)。

知的財産法全般を取り扱う「弁理士」は1万173名(2015年2月28日現在)。官公庁に提出する書類、権利義務及び事実証明に関する書類の作成代理や入国管理法マターを手掛ける「行政書士」は4万4730名(2015年4月1日現在)。

これらの実務法曹を足し算すれば15万1506名になるのです。

「えっ!彼らも実務法曹なの?」と尋ねる方がいれば、欧米人に上記資格内容を説明して、それを英語で何と訳すべきかを尋ねてみればよいと思います。諸外国で通常こうした資格に相当するものは存在せず、彼らが手掛ける業務はいずれも弁護士が弁護士の資格で実施しているから、lawyer(s)なのです。

そうすると、日本では(弁護士と合わせて)19万人近い実務法曹が今後必ず増えていくのに、国民の人口は減少し、これに合わせるかの如く中小企業数は減少の一途(中小企業数は1999年の484万から2012年の385万まで減少)を辿っているのです。

需供のアンバランスは高度に差別化されない領域ではサービスクオリティの差が決定的要因とならないために拡大する一方となり、今後実務法曹の仕事は確実に漸減し、その報酬も確実に漸減します。

日本の状況を踏まえれば、個人の法律事務所から大規模法律事務所まで苦境から逃れる術はないと予想されるのです>

以上は弁護士をめぐる客観的な状況だ。ライター稼業も「高度に差別化された専門分野を身に付けている」人には仕事が来るから、専門分野でトップ10以内にいないと飯は食えない。

これはどの業界でも言えることだろう。翻訳・通訳でも90年代あたりからはありきたりの能力では食えず、IT、医療/医薬、特許などの専門分野に通じている人以外は仕事探しに苦労する。

以下は起業や事業、人生についての村尾氏の哲学だ。

<弁護士業界が他の実務法曹と同様に半永久的に継続する苦境から逃れることはできないとするならば、個々の弁護士、法律事務所は生き残りのためにどうすればいいのでしょうか。

まず方法論を語る前に精神論で恐縮ですが、弁護士業を大好きになることこそが最も重要だと確信します。

だって、どの弁護士も苦境から逃れることはできない以上、生き残りを賭けた戦いは誰がやっても厳しいものに違いはなく、そうすると当然に苦しいはずです。

苦しいことに耐えることができるかどうかは、やっていることが大好きかどうかによって決まります。

マラソンランナーは練習も試合も過酷で苦しいはずで、まして川内優輝選手のように働きながら日本最高水準を維持する場合には常人には想像もつかないほど苦しい日々に耐えなければなりませんが、彼らは走ることが大好きで、それが天職だと思うから、それに耐えることができているわけです。(平井:村尾氏の趣味はトライアスロン)

そうすると、弁護士も弁護士業が大好きなのであれば、苦境であっても楽しみながら乗り越えていく知恵と工夫と勇気が出てくるはずです。

ちなみに私は弁護士業が大大大好きで、司法試験になかなか合格しないときにも「こんな苦しい試験に働きながら挑戦して、俺はそこまでして弁護士になりたいのか?」と何度も自問自答しましたが、答えは常にYESでしたので、よほど弁護士業に憧れていたのでしょう。

そして、実際に弁護士になった後もこれが天職だという思いを常に抱いています。

ついでに言えば、私は筋金入りの日中友好論者で、決して中国のよいところだけを見て、悪いところを見ない非科学的態度をとるつもりは毛頭ありませんが、ともかく生きている間に少しでも日中関係を良好なものにしたい、それに貢献したいと心から思い込んでおり、日中友好関係に従事することができている現状を神仏とご先祖様に心から感謝しています。ここでも中国には悪いところも変なところもあるけれど、要するに大大大好きなわけです。

こうして「弁護士業+日中友好関係への従事」がウルトラ大好きなので、日々の経営で常に課題、難題が出てきても、「俺は神仏とご先祖様から天職を授かっているのだから、これを投げ出すわけにはいかない」という思いがあって、そうすると「じゃあこの課題、難題を今回はどうやって料理しようかな〜♪」とか楽しみながら乗り越えるアイディアを出すマインドになるのです>(以上)

ビジネス、特に起業に必要なものは、まず専門知識、高い技術。これは当たり前で、さらに愛嬌、営業力、企画提案力、精神的・肉体的なタフさ、資金力、その上に接待力、忍耐力も必要だ。「この仕事は天職、ウルトラ大好き」じゃないと、とても続かない。

日本人は単純な仕事でも「道を究める」性向がある。創意工夫して最高のものにしたいという思いがある。そうしているうちに仕事が大好きになり「天職だ」と思い、艱難辛苦を乗り越えて精進する。報酬もそれにつれて上がるとは限らないが、社会に役だったという“満足感という報酬”がある。

小生は「筋金入りの反共主義者」で、中国共産党を「ウルトラ大嫌い」だが、「どうやって料理しようかな〜♪」とか楽しみながら中共殲滅の天職に努めている。

若者よ、石の上にも三年。もういいやとまったく違う分野へ行ったら、また新人だ。3年ごとに仕事を変えていたら専門分野は作れない。「これが俺の天職だ」と最初の職業で3年、6年、9年踏ん張れ。道は開けてくる。

山本夏彦翁曰く「歳をとると説教したがる。老人が敬遠されるのも故なしとは言えない」。ま、余計なことを言ってしまったか。

■6月13日(土)、朝は室温25.5度、体温36.7度、晴、フル散歩。トマト畑はナント鉄条網で囲まれていた。泥棒がいるのだ。オッサンは早朝から出張っていた。敵を憎悪し、警戒し、防備を固めないと奪われるということ。

昨日は午前中に発熱して散々だった。孫から風邪をもらったのだろう。体温計で測れば38.4度、在庫の薬(ペレックス)を飲んだら37.7度、おでこに保冷剤を巻きつけたら夕刻には37.4度、就寝前は36.8度まで下がったが、体調は良くない。それでも昨日はしっかりキッチンをやり終えた。

昨日、カミサンは仕事を終えると一旦帰宅して、弁当をピックアップして速攻で長女の2児を保育園に迎えに行き、そのまま長女宅に1泊。だから小生は是が非でも5人分の弁当を用意しなければならなかったわけ。

今朝、カミサンは2児を保育園に預けてから帰宅し、すぐに職場へ向かったが、まったく忙しい。弁当は特にお好み焼きが大好評だったという。

料理でカミサン、子・孫を支配下に置くという小生のキッチン帝国主義を守るには、体調がたとえ悪くても手抜き、妥協、譲歩はできない。

マキャベリ曰く――

「君主は、自らの権威を傷つける恐れのある妥協は、絶対にすべきでない。たとえそれに耐え抜く自信があったとしても、この種の妥協は絶対にしてはいけない。

なぜなら、譲歩に譲歩を重ねるよりも、思い切って立ち向かって行ったほうが、 たとえ失敗に終わったとしても、はるかによい結果を生むことになるのが、ほとんどの常だからである。

もしも、正面衝突を回避したい一心で譲歩策を取ったとしても、結局は回避などできないものだ。

なにしろ、譲歩に譲歩を重ねたところで相手は満足するわけでもなく、それどころか相手の敵意は、あなたへの敬意を失ったことによって、より露骨になり、より多くを奪ってやろうと思うようになるのがオチなのだ。
また、思慮もない単なる譲歩策によって示されたあなたの弱みは、味方になりえた人々をも失望させ、 彼らを冷淡にさせてしまうだろう。

反対に、もしもあなたが、相手の真意が明らかになるやただちに準備をし、たとえ力が相手に劣ろうとも反撃に出ていたら、敵といえどもあなたに敬意を払わざるを得なくなるのである。

そして、他の国々も敬意を払うようになり、結果としてあなたは味方を獲得することになる」

まさに然り。

日米開戦は不可避だったと小生は思うが、実際に戦って良かったと思う。尻尾を巻いて譲歩、妥協し、4つの島に閉じこもったら、世界の植民地から白人を追放することはできなかったろうし、戦後の、多くの民族からの日本への敬意、連合国からの日本への恐れ、多分「畏怖」もなかったはずだ。

山本夏彦翁は「国際情勢は猫の目のように変わるから、都合の良い時期を待って行動すべきだった」と言うが、原油や武器の備蓄を考えると、「今立たないと勝つチャンスはゼロになる」という切羽詰まった事情があったろう。

まあ、敗けは敗けだ。大横綱に小結が短期決戦のつもりで噛みついたが、予想に反して長期戦になってしまった。戦争の資源が空になった。

戦後、米国は「国のためには命を惜しまない」日本に武士道と武器がある限り枕を高くして眠れない、と日本を「100年間戦争のできない国」にした。

ところが今や、アジア・西太平洋においては赤匪・中共の横暴を潰すために、米国は周辺諸国との軍事協力を進めざるを得なくなった。その核心は日米同盟だ。

中共は結局、大戦略で失敗したのだ。自己・自系利益優先原理主義、ヤクザの「俺が縄張りを拡大するのはシノギのために当然。縄張りに入って来るな、接近阻止、領域拒否!」とトラブルを起こし、結局「太平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」と70年ぶりに日本を起こしてしまった。

中共の大ミス、大チョンボだ。逆に日本にとっては大当たり、宝くじの前後賞も獲得した気分で、周辺諸国と連携して対中「鉄条網」の包囲網を作れる。

一切の妥協、譲歩を拒否し、日米豪印乳アセアン+ブルネイなどのアジア版NATOで中共を体固めで押さえ込み、「シナ海は公海だ、お前の縄張りじゃあないぜ、俺らは空も海も自由航行するからな。武力での秩序破壊は許さんぞ。商売はルールに則ってやるのなら好き放題にやれ」と調教できる。

中共が言うことを聞かなければ柔道の猛者ミヤケンのように体固めで相手を窒息死させるだけだ。我が方は当然「抵抗したから絞めざるを得なかった、自衛の措置」と主張するから、国際世論はせいぜい「傷害致死罪、蟄居3年、執行猶予つき」となる。

国連は1年もすれば恩赦、3年もすればルメイに与えたように勲章をくれるだろう。強い者に皆なびく。

アジア版NATOの保安官助手は日本が務める。黒帯プーチンを抑え込んだ後の保安官助手はNATOだ。両方面での保安官はワイアット・アープしかいない。

覚悟はできたか、オバマ大将? 君のレガシーはシナ海と欧州東部戦線にあり。中露に鉄槌、ならず者を押さえ込む。OK牧場の決闘の日は間近だ。命を惜しむな、名こそ惜しめ。パーの人生でいいのか。アルバトロスを目
指すべし。

午後9時、湯上り模様のN母子来襲。「お泊りさせてくださーい」。ビールをどっさり持ってきた。

■6月14日(日)、朝は室温25度、微雨、フル散歩。体調戻る。

12日に鉄条網をめぐらした畑のオッサンに「泥棒? 大変だね」と声をかけた。土地持ちでマンションやら月極め駐車場なんて持っているから、畑はほとんど趣味の園芸的なのだろうが、それでもショックだったようだ。

「明日から収穫だと思っていたら、前夜にやられた。4、5人のグループみたいだ。ナスとキュウリは大きいものから小さいものまで、根こそぎ盗まれた。40、50キロぐらいかな」

「がっかりだね。防犯灯とか防犯カメラが必要だね」

「防犯灯は川崎市にお願いしているんだけど・・・とにかくここは夜には真っ暗だからね」

「頑張ってね、お大事に・・・」

邪悪な連中は少なくない。自警団を組織し、捕えて右手を潰すくらいの制裁を加えないといけない。目には目を。過剰防衛? 甘やかすとIS、匪賊、やがては中共になる。

「芽むしり子撃ち」、然り。悪は小さなうちに叩け。社会防衛論を勉強してみよう。

それにしてもサウジの庶民の楽しみが公開処刑見物だなんて・・・米国には変わった友達がいるが、世界は国益のためには見て見ぬ振り。日本もそうだ。

リアリズム思考は正義やら道徳は関係ない。ひたすら国益。えげつないものだ。まことに「世界は腹黒い」。

今日は集団的子育てという宴会でレバニラ、焼売など。いずれも手作り、大好評。残りはお土産にしたから完売。疲れた。

■6月15日(月)、朝は室温25度、快晴、フル散歩。

12日の産経に藤本貴之氏(東洋大学総合情報学部准教授、メディア学者)の論考が載っていたが、産経のサイト「iRONNA」にオリジナル原稿があった。

<テレビを低俗なメディアと断じた大宅壮一による流行語「一億総白痴化」が生まれたのは、1957年2月のことだ。日本でのテレビ放送の開始が1953年のことであるから、テレビは誕生以来、低俗なメディアと言われ続けていることになる。

近年、「テレビの質的低下」がいくらさけばれようが、そもそも、スタートから低俗という認識だったのである(映画との比較を前提とした「質」の優劣なのだろうが)。

「テレビは低俗」「マスゴミ」と言われても、誕生から現在まで言われ続けていることと考えれば、いまさらの「マスゴミ」論は注目すべき指摘ではないだろう。

むしろ、そんなテレビであっても、インターネット上に氾濫する無数の動画や映像と比べてみれば、それが圧倒的に高いクオリティを持っていることに気づかされる。

テレビは低俗かもしれないが、インターネットの世界は、それ以上に「低俗」な世界が広がっている。「低俗」という言葉に語弊があるならば「最低限の質が保証されていない世界」と言い換えることができるかもしれない。

テレビの質が低下したと言われる今日でも、まだまだテレビのクオリティは高い。見方によってその評価・判断は別れることは承知の上でも、テレビは十分にクオリティメディアであると言えるだろう>(以上)

藤本氏は大学院レベルのオツムだろうが、基本的な認識ができていない。「テレビは低俗」、それはそうだが、「ネットはそれ以上に低俗」というのはおかしい。正確には「ネットは小1レベルから大学教授レベルまで、玉石混交だ」というのが実態だろう。

テレビは玉石混交ではない。「中2レベルのものしかない」ところが問題なのだ。それを「クオリティメディア」というのは無理がある。

新聞では「クオリティペーパー」という。「イエローペーパー」などの大衆向けの娯楽情報の7S、すなわちsex、scandal、screen、star、sports、sea、sunの情報以外を掲載する、高2レベル以上向けの論考を主体にした新聞だ。

明治のころは陸羯南の「日本」(1889/明治22年−1914/大正3年)が有名だったが、ルビを振らないから紙面は真っ白だったそうだ。一方で大衆紙はルビを振るから真っ黒。山本夏彦翁がそう言っていた。

テレビは映像は素晴らしくきれいになったが、60年たっても中身(伝えたい情報、メッセージ)は中2レベルのまま。ほとんど7Sの白痴ネタ。小生はここ4年以上はまったく見ていないが、永遠に中2レベルだから相変わらずのクソ情報だろう。

ネットでは玉石混交の情報から「これは本物だろう」というような玉を選んで「知」を積み重ねていくことができる。テレビは永遠に揮発性、オナラのような「痴」を繰り返すから、すぐに雲散霧消し何も積み上がらない。10年もたてばテレビのコンテンツは完璧にオンデマンドのネットに移行する。テレビ時代は終わりになる。めでたしめでたし。(2015/6/15)
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