2015年06月22日

◆木津川だより 相楽神社 B

〜郷土の式内社〜
白井 繁夫



相楽神社Bを書き始める前に古い友人から、「木津川流域は古来より大水害に度々遭っていると聞くが、相楽神社の創建を含め、歴史的史料、文物など如何なっているのか?」と。

木津川流域の神社や寺院は昭和28年の大水害まで、まず全部が被害を受けており、古文書や貴重な文化財をかなり消失しています。(昭和28年以降木津川上流域には治水対策として高山ダムを始めトータル5ヶ所ダムが出来、下流域には安心安全を担保しています。)

消失した古文書や歴史資料等は、南都の諸大寺院や南山城の山間地の神社、仏閣などの古文書と遺跡などから発掘された文物などで研究されて少しずつ解明されてきています。

私は「相楽神社」@では、神社が出来たバックグラウンドの地形(木津川と交通の要衝)、地名(相楽:さがなか)の歴史、Aでは大和朝廷の発展(藤原京、平城京の玄関港として)と共に栄え、平安時代に式内社となり、重文の有形文化財を持つ神社となった事など綴りました。

今回Bは、平安京へ遷都後から江戸時代を過ぎ明治時代からの、鉄道網や交通網の変化で
郷土の式内社がどうなったかを、綴って見ようと思います。

藤原京造営以来古代大和の玄関港として栄えて来た「泉津」の西の港(吐師浜)の近隣に
佇んで来た「相楽神社」(さがなか)は、元明天皇が710年に平城京へ遷都し、新都城造営に注力したことにより、地域は更なる発展を遂げました。

桓武天皇が平安京へ遷都(794年)しましたが、大和(奈良)には藤原氏の所縁の寺院(興福寺).神社(春日大社)を始め、東大寺などの有力な神社.仏閣が残って居り、泉津(木津)は依然として、「京と大和」との重要な交通の要衝でした。

平安京への遷都に纏わり、大和の大安寺八幡が京の都の裏鬼門に当たる地、「男山(現八幡市高坊):表鬼門は比叡山(延暦寺)」へ遷座して都を守護する道中で、「相楽神社」に一行が立ち寄りました。

「相楽神社」の神主(宮守)は歓戴しその時餅をふるまったことに因み始まった祭事が、毎年2月1日に催される「餅花祭」と称されるユニークな催事なのです。
当時、地元(相楽の清水)に八幡宮が在り、男山八幡は石(いわ)清水八幡宮と名乗った、と在処では云われています。


餅花本殿縮小.jpg
巫女の舞縮小.jpg


「相楽神社」の正月行事で特に御田祭を中心とする一連の行事などには、中世的な宮座祭祀の様子が現在もよく残されており、護られてきた伝統文化なども多数あって、京都府指定民俗文化財に指定(昭和59年)されています。

<宮座の正月行事>

★豆焼: 月々の降水量を占う (1月14日夜)
   瓦の上に大豆12個(12ヶ月分)を並べて、焼き、その豆のはぜ方(筋目)から月々の降水量を占う。

★粥占(かゆうら): 早稲、中稲、晩稲の作柄を占う (1月15日朝)
   篠竹を10cm長位に切り二つに割り両端を結び、小豆粥を煮て、3本の竹筒につまった粥の状況で、早、中、晩稲の作柄を占う。

★御田祭(おんだ): 稲作の一年の農作業過程を模して豊作を祈る (1月15日昼)
   4人の宮守とソノイチ(巫女)とで行われる予祝儀礼:祝詞に始まり、鍬初め、鋤初め、苗代しめ、種まき、田植えなど、稲作過程を太鼓の素朴な拍子に合わせて4人の宮守とソノイチで太夫や早乙女役などになって、古風な種まきや、春田打ち、田植の歌など、具体的な所作を伝えております。(伝承芸能として大変貴重です)。

★餅花祭: 団子状の餅を12本の竹串に5個ずつ粘土を芯にした藁包みに差して花に見立て、トウヤ(注)が奉納する祭事 (2月1日)
   各宮座のトウヤは宮守とソノイチ以下各所属座の氏子の家にも餅花の串を配ります。
  (注)トウヤ:座中で新しく氏子(子供)が生まれた家が当番にあたる。

★水試(みずだめ): 年間の雨量を占う (旧暦1月15日)
   本殿前に祭壇を設け、棒を1本建て棒に当たる月影の長短を計り、年間の降水量を
   占う。

<「相楽神社」の大祭>

元旦祭(正月1日)、祈念祭(2月15日)、秋祭(10月17日)の年3回の大祭です。
特に、秋祭りは宮座の総集会としての最大行事でもあります。
嘗ては、小学校も休みとなり、子供神輿もありました。更に、昔に遡ると秋祭りに流鏑馬
の神事や能舞台も催行されていた時もありました。

(流鏑馬や能舞の奉納は前回少し触れましましたが、一族(帯刀を許された郷士)の勢力
減により江戸時代末には開催できなくなりました。)

現在は神社の前面(東側)は小学校の敷地になり、南面は幼稚園の敷地、北面の鎮守の森
は、国道163号に割かれました。流鏑馬や競べ馬などで活用した松並木の神聖な道は一般の道路になり、車も通れるため信号機が付いています。

鉄道など交通網の発達に伴い、「木津川の水運」も、歌姫街道も嘗ての面影は無くなり、「相楽神社」もひっそりと佇んでいるように思われます。

しかし、地元の人々に守られてきたこの神社は、古来の宮座組織や伝統行事も現在でもしっかりと受け継がれており、神社の境内は毎朝宮守さんらが清掃しておられます。

流鏑馬で華やいだ神道は現在小学生や幼稚園児の明るい声が満ち満ちています。
神社の環境を変えることなく将来へ伝わるよう、境内一帯が京都府文化財環境保全地区に
指定されています。

室町時代初期に建立された重文の相楽神社の本殿も、鎮守の森も人工的な植栽はなく自然体の状態で佇んでいます。当神社への交通機関はJR学研都市線(片町線)「西木津駅」より西へ徒歩3〜4分、近鉄京都線「山田川駅」より東へ徒歩7〜8分です。

何の飾りも諂いもない自然体の姿ですが、皆様のお立ち寄りをお待ちいたします。(了)
参考文献: 木津町史 本文篇、 史料篇 T、 木津町
      相楽の民俗  (京都民俗談話会 南山城調査会)




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