2015年06月22日

◆「けろりの道頓」が造った街

渡部 裕明



大阪都構想が、わずかの差で否決されて1ヶ月。橋下徹さんが主役となって催した祝祭が終わり、祭りの後の気だるさが、そこかしこに漂っているのだ。

大阪と東京は約400年間にわたって、よきライバルの関係を続けてきた。大坂と江戸、西国と東国の競い合い、といってもいいだろう。

狭い日本列島ではあるが、違ったところも少なくない。それは、それぞれの地域で暮らす人々が自然に抱く感情ではないだろうか。

400年前の人工都市

現在にいたるまで、大阪の恩人といえば、やはり豊臣秀吉であろう。「山崎の合戦」や「賤ケ岳(しずがたけ)の戦い」によって天下人の地位を得たあと、水陸の便に恵まれたこの地を、一大城下町として整備した。

古都の京都と違って、大胆なまちづくりが可能だったことも大きい。財力を傾けてさまざまな人材を集め、巨大な人工都市を造り上げたのである。豊臣家に代わった徳川家康も、この町の利便性に大きな魅力を感じ、将軍代行にあたる「大坂城代」を置いて引き継いだ。

町づくりに協力した人々は数多いが、現在まで名前の伝わる人物もいる。ミナミを東から西に流れる運河「道頓堀」の開削者とされる成安(なりやす)道頓(1533〜1615年)だ。

征夷大将軍・坂上田村麻呂の子、広野麻呂が平野郷(ごう)(大阪市平野区)に住み着いて始まった「七名家(しちみょうけ)」のひとつ、成安家の出身。かつては、安井道頓の名で知られていた男である。

豊臣家の協力者として

道頓堀の開削が始まったのは、慶長17(1612)年とされる。道頓が工事に取り組んだ理由は伝わらないが、慈善事業ではないだろう。彼には有力町人、ブローカーとして労働力を動員できる力があり、秀吉の大坂城築城にも協力していたとみるのが自然である。

ではなぜ、豊臣家への協力者の道頓の名が残ることになったのか。江戸幕府がどうして、それを許したのだろうか。

ひとつのヒントとなる見方がある。司馬遼太郎さんの小説「けろりの道頓」(講談社文庫『最後の伊賀者』所収)だ

産経新聞在職中の昭和35年に発表した作品で、道頓と秀吉の不思議な出会いと愛妾(あいしょう)・お藻(もう)との別れ、そして道頓堀開削事業への着手を描いた小編である。

司馬さんは作品の中で、道頓の行動を「けろり」と表現し、他人には理解しがたいが、不思議な魅力を持った人物として描いている。

大坂城下につくられた青物市場で偶然、関白秀吉に出会ったとき、道頓は女好きの秀吉にお藻を差し出してしまう。そして1年後、その返礼として道頓のもとに1匹の緋鯉(ひごい)が届けられる。しかし彼はお藻を手放ったことを深く悔い、彼女の代わりの緋鯉を泳がせるため、道頓堀を掘ったと書くのである。

史実ではあり得ないが、司馬さんならではの解釈だ。そして道頓は、大坂夏の陣が始まると「豊公には恩義がある」と言い残して城に入る。

「落ちる城」に籠もって

道頓が大坂城に籠もって亡くなったことは、事実のようだ。平野七名家のひとつ、土橋家の文書には「成安道頓は慶長20年、大坂城中で討ち死に」との注記がある(脇田修著『近世大坂の町と人』人文書院)。

大坂冬の陣(1614年)の和睦によって、天下一の大坂城も堀が埋められ、「裸城」となっていた。落城は時間の問題だった。そんな城に入ることは、明らかに死を意味する。武士でもない一介の町人がなぜ、そうまでしたのだろう。不可解というしかない。

「お藻のこともある。お藻が死んだお城なら、わるい死場所ではない」

司馬さんは、入城する道頓にこうも言わせている。

大坂の町衆は、そんな男気のある道頓を支持した。夏の陣のあと、大坂城代に就任した大和郡山藩主・松平忠明は、この堀を「道頓堀」と呼ぶことを許すしかなかった。道頓を愛する人々に対して、その名を消し去れなかったのだ。

道頓堀に代表される運河が縦横に走ったことにより、大坂は「水都」として江戸時代を通じて繁栄した。道頓堀はいま、夜ともなるとネオンが輝き、あちこちで嬌声(きょうせい)が聞こえる。

日本橋(にっぽんばし)の北詰めには、道頓の功績をたたえる石碑があるが、立ち止まって見上げる人はほとんどいない。(わたなべ ひろあき 論説委員)(再掲)

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