2015年06月24日

◆蘇る55年前の記憶

眞鍋 峰松
  


最近新聞紙上を連日賑わせている二つの議論を読んでいて、約55年前の記憶が鮮やかに蘇ってきた。 昭和35年前後、高校在学中の出来事である。 
  
私の学年は、昭和17年〜18年の生まれ。終戦直後の混乱振りを記憶しているはずも無いのだが、多少なりともその匂いを嗅いだことのある世代ということになる。
高校時代は昭和33年4月〜36年3月。丁度、昭和35年(1960年)の日米安全保障条約改定時の大騒動の真っ只中に、最も多感な高校時代を過ごした世代である。この安保反対闘争の余波は、当時の高校生たちにも及んでいたのである。
  
折しも現在、国会では、安全保障法制について喧々諤々の激しい議論が戦わされている。 そして一方では、選挙権年齢を18歳以上にする改正公職選挙法が今月17日に成立し、来年の参院選から、18、19歳の約240万人が新たに有権者となる、と伝えられた。

 母校の府立I高校は、在学当時、教職員組合の拠点校の一つと目される程の激しい活動に巻き込まれていた。 組合員である教員の中には、安保反対を唱え、学校内で座り込みハンガー・ストライキを敢行する者も現れる始末。 

今から考えると、幾ら自分の主義・信条と異なる政策が採択されたからと言っても、教育現場である学校での斯かる行動は到底許されることではなく、多分、現在の世の中の大半の人達には受け入れられもしまい。 

だが、当時の校内の雰囲気は凡そ現在の一般社会常識からかけ離れたものであった。 しかも、組合員の教員の影響の下、生徒会活動も先鋭化し、遠い記憶では、I高校でも一日、最も激しかった同じ府立の某高校に至っては、一週間以上も生徒が校門を閉鎖しロックアウトに至る異常な状態であったように記憶する。 

その他の高校でも似たり寄ったりの状態では無かったろうか。 また、学内では大学生の学生運動家など外部からのオルグ活動も激しかったという記憶もある。
このような混乱の中、私の所属した新聞部は、組合教員の行動や外部からの学生運動家の活動を批判し、高校生らしく自制を求める論説を載せ、賛否両論の激しい渦の中に放り込まれ、挙句の果てには、一時期、反対派の生徒達によって部室に長時間閉じ込められるという苦い経験にも遭った。
                                     
  この当時、過激な全学連を筆頭に「アンポハンタイ」を叫び、街頭に飛び出し激しいデモ行進を行う時代世相だった。 また、マスコミ報道の主流は安保条約改定に否定的であったが、仮に、この時安保改定が実現しなかったら、当時の厳しい東西冷戦の下、我が国はどのようになっていたか。 

その後、西側諸国では景気変動や社会問題等の発生による一時的な浮き沈みがあるものの、概ね順調な繁栄を続けた。 

これに反し、東側・共産主義国のソ連、中国などでは著しい経済的窮乏や絶えざる社会変動に直面し、遂にはソ連邦の劇的な崩壊に至ったこと等は記憶に新しい。 

一方、国内でも、これら東側国々と共鳴していた旧社会党の没落などに照らしも、安保改定賛成・反対のいずれが正しい主張であったのか、今日では明白であろう。 

その後、55年という歳月が流れた今日、世界の現状は依然として日本国憲法が想定しているような「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」国運を委ねられるような環境にはない。 そのような情勢下での安全保障法制論議である。
    
18歳選挙権についても、高校3年生と言えばほぼ全員が18歳へ到達する年齢である。今後、国は政治の仕組みや選挙の意義を分かりやすく解説した副教材を全国の高校に配布し、模擬選挙のような参加型の教育も充実させる方針だ、と聞き及ぶ。 

そこで直面するのは、上述のような個人的体験の下で感じた、一部教員・生徒の的外れな行動が再度起こらないのか、という危惧である。 今回の公選法の改正で新たに有権者に加わる18〜19歳は約240万人に上り、各政党にとっては「垂涎の的」だ、とのこと。 

こう考えると、教育現場での政治的中立性の確保が大きな課題となり、教員の意見が生徒の投票行動に影響しかねない、という指摘も十分根拠のあることではなかろうか。

   以前にも本欄で記述した事柄だが、最近の日本の風潮は、国会論議やマスコミ論調を見聞きするにつれ、政治の面でも、社会面でも、“いい””悪い“という単純な両極端に焦点をしぼって対決を迫るというか、結論を押し付けようとする空気が強く感じとられ、国民も風になびく葦のごとく右往左往する。 

私の独断かも知れないが、どれをとっても理性的でない、感情的な二者択一的な議論ばかりのように思われて仕方がない。 

何でも寄せて二で割る式の曖昧主義・中道主義が良いというのではないが、問題を両極端に絞って対立させ、その良し悪しを定めるやり方は決して現実的ではない、と言いたいのである。 

あえて言えば、“いい””悪い“をはっきりさせ過ぎるような世の中は、窮屈でもあり、不健全だということになるのだろう。 実際には、“いい””悪い“を極めつけられないグレーゾーンの部分があることが現実でもあり、もともとその幅の中をゆるやかに往還するのが生活であり、政治でしょう、と。                               

どうも今の風潮は、全般的にあまりにも自分自身を省みず、他人を責めることに急に過ぎるのではなかろうか。 

今後教育現場で行われようとする“主権者教育”においても、非常に難しいことだが、幅と余裕のある人間教育、決して偏狭な人間を育てないという視点を大事にして頂きものだと期待しておきたい。 



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