2015年08月11日

◆「侵略」はfaux amis

上西 俊雄



「略」、『大字典』には「本義は土地を整理し治むる。故に田扁、轉じて界・謀計カナメ等と義として掠に通じて奪ひかすむる義とす」とある。また親字「侵」の項には「侵略」「侵掠」が竝んででてゐて、前者は「他のものをおかしとること」、後者は「攻めて領土やものをかすめとる」とある。

三省堂『新明解國語辭典』の「侵略」の項には「他國に攻め入って、その領土を奪ひ取ること」とあり、「侵掠とも書く」との意の表記上の注記がある。

入院中に友人からもらった大修館書店の『漢語新辭典』の「侵」の項では「侵略・侵掠」とまとめて記述してある。

だから「侵略」と「侵掠」は同じ意味なのであるが、問題は「掠」が表外字であって事實上使用禁止であり、「略」は常用漢字であるけれど、常用漢字としての訓がみとめてないことだ。

だから、いはば「侵略」は事實上代用表記であって意味を精確に考へない語になってしまった。ネットで「侵略は代用表記か」と檢索してみたら「阿蒙のつぶやき」といふブログがでてきた。

<辭書學にfaux amis(僞りの友)といふのがあるさうだ。汽車のつもりが自動車であったり、手紙のつもりがチリ紙だったり、日本語と中國語の意味の違ひでよく例示される。

KMSさんは「侵略」を例に擧げて説明する。本來は「侵掠」。「掠」には「かすめとる」といふ訓があるが「略」にはない。つまり、漢字が違へば本來の意味がずいぶん變ってしまう。>


阿蒙子がKMSとするのは筆者のことで、これは「頂門の一針」1416號(2009.1.5)で書いたことであった。筆者は學者ではない。だから戰前の表記がどうであったかの實際を調べて書いたわけではなかった。

これは訂正が必要だ。「略」について我々は遮眼帶をかけさせらたといふべきであった。とにかく言葉の眞の意味に於ては我國はいづこも侵略したことはないといふべきだ。

漢和辭典や國語辭典をひきさへすれば今でも侵略は invasion と異ることがわかるのであるが、しかし今では辭書を引くひとは少い。おそらく21世紀構想懇談會の諸氏も戰後教育で漢字の意味について遮眼帶をかけた人ばかりなのではないか。

侵略を侵の意味でのみ考へれば、我軍は中國本土に入ったのだから否定のしやうはない。だから侵略したと認めれば、相手は略についても認めたと受取るだらう。

本日(8月10日)の日本經濟新聞の教育の頁に「下村文科相に聞く」といふ記事があって、「國が國立を含め全大學を一齊に動かす權限を持ってゐるわけではない」とあるけれど遮眼帶を強制してゐることは確かだ。

教育を司るところが遮眼帶を強制するのは本末轉倒。教育は專門家にまかせるおけるやうな簡單な問題ではないといふことを思ひ出した。

3026(25.8.3)の「30年前の英國の國語問題」で引いたところを再度引く。

<The abuse of language is the inevitable consequence of
generations of politicised education. It became more important to
guarantee that everyone left school with a certificate--hence the
idea of the `no-fail' examinations. Teachers, substantially the
architects of linguistic destruction, were urged to encourage
children to `express themselves', regardless of grammar,
vocabulary and style. They felt that a child's ramblings indicated
development. Those children, older, are still rambling, their
language a barrier to communication. We let the teachers and
politicians get away with it. We did not go to the barricades over
falling educational standards. We forgot that education is far too
important to be left to educators.>


<國語の誤用は政治化された教育を受けた世代の不可避の結果だ。だれもが學業ををはるにあたって修了證書を手にすることが一層重要とされた。

然り而して落第のない試驗といふ考へが生まれた。實質的に國語破壞の技術者たる教員は兒童に、文法、語彙、文體などはどうでも、とにかく自己を表現することを獎勵した。もごもごした表現を發達を示すものと受取った。

兒童は歳を重ねてももごもごしたものいひだから、國語はコミュニケーションの阻害要因となった。我々は教員や政治家に好きにやらせてきた。教育の水準が落ちることに對して身を挺して鬪ふことをしなかった。

教育が教育專門家にまかしておけるやうなものでなく、はるかに重大なことだといふことを忘れてゐた。>

3737號(8.9)の讀者の聲に於ける前田氏の投稿、それに對する主宰者の漢文教育についての辯も同じことを問題にしてゐるのだと思ふ。

海音寺潮五郎はもと國語教師。古文書は專門ではないから讀むのがむづかしいと書いたところに次のやうにある。

<昔の人の消息文は現代人にはわかりにくいと言っても、人によっては實に明快な文章を書く。學者といはれるほどの人のものは皆わかりやすいが、とりわけ漢學者のが明快だ。

頭もよいのであらうが、漢文といふ文體が簡潔で齒切れがよいので、平生それに浸潤してゐるだけ、日本式消息文を書いても、明快になるのであらう。

日本語は漢文の骨格を借りなければ、散文として成立し得ない宿命があるのかも知れない。

江戸時代の國學者より、儒者である、たとへば新井白石、たとへば室鳩巣などの方が、はるかに見事な和文を書いてゐる事實をもってみても、かういへるかも知れない。

漢文を中學校で教へることをやめたのは、大失敗であったと思ふ。>


またガミガミ説法といふ中にある「朝三暮四の詐術」といふのも面白い。こんなところがある。


<ぼくの見るところでは、政府や役所はしごとをかかへこみすぎてゐる。ひと頃、郵便を民營に移せといふ聲があり、水飢饉の頃には水道を民營に移せといふ聲が上ったが、以上の外にも隨分あるに相違ない。

管掌してならないものもある筈だ。

例へば國語は權力をもっていぢくりまはすべきものではないのに、文部省に國語課などといふ課があるため、國語改革などといふ奇怪千萬なことをはじめて、世を混亂させるのだ。

ともあれ、かうして管掌事項を少なくして行けば、ここでも大はばに人べらしが出來る。>

海音寺潮五郎、郷里の先輩として一度だけ謦咳に接したことがある。

先日のテレビドラマで高橋英樹が部下にむかって「父上」といったのは「御父上」でなければ意味をなさないところであった。

潮五郎先生も斯くまで國語が病んでしまふといふことは念頭になかったはずだ。

海音寺潮五郎未刊作品集といふのがある。その後書に「テキストは掲載誌切り拔き等によったが、發表時期にかかはらず、新假名遣とし、原則として當用漢字は新字體とした」とある。

だから「めぐり逢い」も「いなずま」も發表時の題とは異ることになってしまった。


フランクリン作品集の編集方針のところに次のやうある。(ブラケットに圍んだのは斜體)

<Many of Franklin's writings were published in some form in his
lifetime, often under his own supervision as editor, printer, and
sometimes typesetter. For these writings, the texts printed here
are those of that first publication (newspaper, broadside,
pamphlet, or book). The texts of many of the earlier pieces,
therefore, are those first printed in [The New-England Courant,
The Pennsylvania Gazette.] or one of the other American
periodicals to which Franklin contributed. For Franklin's
published writings while in England, the texts are those of the
original newspapers (except in a few cases where the particular
issue is not known to be extant). The texts of works published
separately, such as [A Dissertation on Liberty and Necessity,
Pleasure and Pain] (London, 1725) and [A Modest Enquiry into the
Nature and Necessity of a Paper-Currency] (Philadelphia, 1729),
are those of the original pamphlet editions.>


最初の發表の形式に拘ることかくの如し。彼我の違ひと一般的に言へることではなく、戰後の我國が變なのだと思ふ。お陰で我々は戰前は「侵略」であったのか「侵掠」であったのかさへ簡單にしらべることができなくなった。
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