2015年08月12日

◆亡国外務省の馬謖を斬るべし

平井 修一



日本戦略研究フォーラム8/5に元法務大臣・長勢甚遠氏の論考「シナ、韓国に対する日本の貢献というが」が掲載されていた。ODAなどの支援は意味があるのかなあと思ったり、実際はカモにされているだけじゃないかと思う小生には勉強になった。以下引用。

<政府はことあるごとにODAなどの日本の支援が開発途上国で大いに感謝されているとし、平和国家日本の役割として国際社会に貢献すると内外に強調している。一方国連などは経済大国である日本の対外援助の拡大を強要し続けている。

国際協力機構(JICA)はODAの成果を得意気に宣伝するとともに対外援助の内容が他の先進国より劣っているなどとしてその改善、増額を要求してとどまるところがない。

国会でも防衛費の抑制の議論はされても対外援助削減の議論はまずない。外国にやるカネがあるのなら国民生活に回してもらいたいということはみんな思っていることであろうが大きな声となることはない。

それはそれでいろんな事情があることでありやむを得ないことであるが、ODAなどの対外援助とは何なのかを冷静に考えておく必要があるのではなかろうか。

国際貢献といえば聞こえはいいし、国民も気持ちがいい。しかしその本質は単なる我が国に対するゆすり、ねだりさらには恐喝の安易な受容に過ぎないのではないか。

戦争で被害を与えた国に援助するのは当然という意見は国内にもあるが、そうであれば相手国には当然の権利で日本に感謝するいわれなどないことになる。

こんなことだとすれば、相手国が日本に感謝しているとか、成果が上がっているとかいうのは日本が勝手に思っている独りよがりの自己満足に過ぎないということになる。

欧米諸国の対外援助は日本のものとは異なり経済侵略の一手段として行われている観がある。近年の中共(中華人民共和国)の膨大な対外支援は経済・軍事侵略の方策として行われていることは明白である。

外交は複雑な要因が絡むから軽々にこれからの対外援助のあり方を論ずることはできないが、いい子ぶってあるいは敗戦国の責任だなどと思って、未来にわたって日本がたかられ続けることには一考を要するのではなかろうか。

新聞で、今年6月に北京で開催された国際会議での中共の王毅外相(元駐日中国大使)の発言を読んで、改めてこんな思いを深くした。

王毅外相の日中関係改善の具体策は何かという質問に対する答えは「中国の発展と台頭を、日本が心から受け入れ、歓迎できるかどうかだ」というものだった。

また、シナが世界第位2の経済大国に成長したことについて「中国の復興は、過去の歴史のあるべき状態に戻っただけだ」と述べたという。

シナにとって日本など対等の相手ではなく、単なる朝貢国にすぎないと考えているということである。そんなことはシナ何千年の歴史を見れば明らかではないかというのがシナの歴史認識であるということだ。

シナの経済成長には日本の何兆円にも上るODAが原動力となったと日本では考えられているが、シナにはそんな評価は全くないのである。シナでは日本の援助について語られることはなかったという。日本の援助で行われた事業もそれには触れず自らの予算で行われているように装われていたという。

それどころか昭和59年に日本の164億円の無償資金協力で開設した北京の「中日友好病院」の名称について、今年2月には「友好」を削り「中日病院」に変えたという。日本に感謝する気持ちを国民が持つことの無いようにするためである。

シナと歴史認識を同じくする韓国でも、奇跡といわれた経済成長は日本では日韓国交正常化の際の経済協力協定、その後のODAに負うものと考えているが、日本の援助のことは誰も知らないでいるという。日本の援助など国民に知らされていないのである。

そういえば、ギリシャがEUへの借款返済を拒否していることが問題になっているが、ギリシャにとってフランス、ドイツの指示を受けることなど選択肢にはないのであろう。なにせギリシャの時代にはフランス、ドイツはシナで言えば東夷、南蛮の蛮人が棲む地であったのだから。

ギリシャはそんなものに感謝したりお願いしたりなどあり得ないと思っているのではなかろうか。シナ、韓国も日本に対して同じようなことであろう。

こんなことは我々には恩知らずな話で不愉快なことに違いない。しかし、これが世界の常識というものなのである。日本の復興はアメリカのお蔭といまだに有難がっている日本は他国から見れば不思議で信じられない国であることだろう。

我々世代は子供のころの思い出としてアメリカからもらった脱脂粉乳に対する感謝を語るが、そんな日本人は哀れな劣等民族に見えることだろう。

日本は困った時には助け合い、助けられた時には感謝するという価値観を培ってきた民族であった。

敗戦によりそういう価値観は世界に通用しない間違ったものとして否定されてきたのであり、そういう価値観をもってシナ、韓国を非難することは許されない。そういうことも分らずにカネを与えた方が馬鹿なお人よしといわれるだけだということである。

昨今のシナ、韓国の激しい反日姿勢に対してあれだけ援助したのになぜだろうと疑問を持つ向きもあるが、もともとそんな人間的感情など日本人以外には存在していないと考えれば納得できる。

日本の国際社会に対する役割、貢献というものも、他国においては日本が考えるものではない(日本式ではない)ことをシナ、韓国の事例から気づかなければならないことではなかろうか。その上での国際協力をどうしていくかがこれからの問題である。

何とも気が滅入る。シナ、韓国との協力関係拡大を声高に発言されている方々はどんなことを思っておられるのであろうか>(以上)

ユスリ、タカリも芸のうち、か。

平井思うに、外務省は日本の国益ではなく「友好=波風が立たない」ことを最優先する、ほとんど反日的集団だと理解しておいた方がいい。チャイナスクール、ロシアスクール、USスクール、それぞれ中、露、米の外交官とワインとチーズで交歓し、相手の厭がることはせず、いつも譲歩しているばかりではないのか。

「東郷和彦氏が説く歴史認識問題を克服するための『道徳観』」(ダイヤモンドオンライン8/10)は外務省がどういう官僚の集まりか実によく分かる。

とうごう・かずひこ:1945年生まれ。68年東大教養学部卒後、外務省入省、主にロシア関係部署を歩き、条約局長、欧亜局長、駐オランダ大使などを経て、2002年退官。10年から京都産業大学教授。近著は『危機の外交』(角川新書)。

<戦後70年を迎え、日本は安定した東アジアをつくるために、歴史認識問題を巡る相克をどう乗り越えればいいのか。京都産業大学教授の東郷和彦氏(元駐オランダ大使)は、「道徳的高み」を目指すことが、日本の戦略的立場を強化することにつながると説く。(インタビュー・構成/『週刊ダイヤモンド』論説委員・原英次郎)

――戦争責任と戦後処理については、日本とドイツが比較され、「ドイツに学べ」と批判されますね。

(ドイツと比べて)日本は何もやっていないのかというと、そんなことはありません。日本の場合、北朝鮮とソ連以外は条約、すなわちサンフランシスコ講和条約や2国間の平和条約で、賠償などの戦後処理は法的にはすべて済んでいる。

ただし、法的責任を超えた自らの判断として、あの戦争をどう考えるか。つまり、法的な問題としてではなく道徳的な判断の問題が残っていた。

そういう意味での日本の戦争責任ついては、1995年に出された村山談話がその総括になっていると思います。戦後、どう歴史を認識するかについて、日本の魂は左翼・右翼の対立の間で遍歴してきましたが、村山談話は日本の道徳的な高みを示しています。

ドイツとは元々罪の性質が違うのだから、日本は戦争責任の取り方についてもっとプライドを持っていい。ドイツは謝ったけれど、日本は謝っていないかというと、そんなことは全くないのです。

村山談話はドイツのワイツゼッカー演説にも比肩できます。その後の諸外国との歴史認識問題については、みな村山談話を使って和解をしてきたわけで、外務省は村山談話に足を向けて眠れないはずです。

8月14日頃に出される安倍談話は、この高みを引き継ぎさらに一歩進めてほしい。和解というのは被害者の側から手を差し伸べて来ないと成立しません。そのような状況をつくることが、日本の戦略的な立場を一番強めることになります。歴史認識問題の解決は、保守派のプリンス安倍首相でこそできる部分が大きいと思います>(以上)

中韓は和解する気はないという本音を東郷和彦はまったく知らない。彼らは永遠に日本を土下座させ続け、それによって自分は正しかったのだという補償を得たいのである。

なぜか、中韓の近現代史には誇るべき歴史がないのだ。日本という野蛮人の国にやられっ放しだったという屈辱の歴史しかない。白人は中韓より上位だからいいが(下手に刺激すると白人連合で逆襲されるから)、下位の日本は永遠に許せないのだ。

こんな狂気じみた国は放置して防備をしっかり固めておけばいいのだ。このイロハが外務省はまったく分かっていない。世界への日本の主張の発信がまったく進まないのも外務省容共左派の“抵抗勢力”のためだ。

獅子身中の虫を駆逐しないと日本の名誉回復は永遠に難しくなる。安倍氏は泣いて馬謖を斬るべし。(2015/8/10)

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