石岡 荘十
70年前の8月15日、わが家は中国・天津で暮らしていた。お昼に重大発表があるということで、国民学校4年生の私、1つ違いの兄と母親の3人で、茶箪笥の上にあるラジオの前に正座をして、待ち構えていた。
天津もその日はギラギラと真夏の太陽が焼け付くように照り映え、セミの声が響き渡っていた。しかし、ラジオは時間になっても、ガーガー、ザーザーと雑音で聞き取りにくい上、途切れ途切れ聞こえてくる言葉も難しくて何を言っているのか理解が出来なかった。
が、母だけは「負けたのよ、戦争、負けたんだって---」と肩を落としたが、こうつけ加えた。
「でも、これでお父さんは帰ってくるわ」
父は民間人のまま軍に徴用され中国奥地に単身赴任をした後、終戦直前か
ら行方がわからなくなっていた。
わがファミリーヒストリーを遡ってみる。
<中国での生活>
父は秋田県の寒村の出身で、明治41年(1908)生まれ。今の秋田工業高校を卒業(大正15年 1926)した後、当時の大企業鐘紡に就職。京都工場に勤務となり、幼馴染だった母を秋田から呼び寄せて結婚した。
昭和9年(1934年)兄が、翌年私が生まれた。その直後、父は中国・天津市にある工場へ転勤となった。私がまだよちよち歩きのころだった。
天津市には2ヶ所に鐘紡の工場があり、一家は父に従って何年か置きにこの2つの工場の社宅を行ったり来たりした。市内には日本人学校が、小学校から中学校まで何校かあった。
社宅の子供たちはこの学校に通いながら、戦後日本の米進駐軍とその家族がそうだったように、高い塀で囲まれた広大な敷地に、周囲の中国人とはかけ離れて豊かな別世界を築き上げて暮らしていた。
30歳そこそこで管理職になっていた父は、鉄筋コンクリート2階建ての洋館に住み、運転手つきのドイツ車で工場に通っていた。家事は纏足の中国人の住み込み女中、アマ(阿媽)が切り回していた。
私は学校が終わると、天津領事の息子が同級生だったこともあって、もっぱら天津領事館を遊び場にしていた。楽しみは自家製のアイスクリームだった。
休日には家族揃って車で街に出かけ、「犬とシナ人入るべからず」とされた日本人専用のプールで泳ぎ、レストランで夕食を摂るという生活だった。
学校が休みの時には、家族そろって船で内地(日本)に旅をし、お伊勢参りをしたり、汽車で北京やあの旅順に旅行したりした。万里の長城へも行ったことがあるらしいが小さいときのことで記憶にない。
だが、戦況が悪化するにしたがって、社員の中には赤紙をもらって戦地に向かう人が出始めた。電気技術者だった父はある日、軍の命令で内蒙古(内モンゴル自治区)に近い大同(タートン)というところに民間人のまま徴用されて赴任していった。詳しいことはわからないが、航空機の部品を作る工場を建設するためと聞かされていた。
父はパ−ロー(八路軍=中国共産党軍)が跋扈する中国奥地での治安を心配して単身で赴任した。というのは、その頃になると、社宅で使っていた支那人が「日本負けた」と噂するようになっていたからだ。
<終戦>
案の定、まもなく玉音放送。
そしてその日から大略奪が始まった。ついさっきまで使用人だった女中、運転手が、家族・親戚、一族を総動員して家に押しかけ、紫檀に貝をあしらったテーブルやマホガニーの本棚、果ては木綿針1本に至るまで一切を、当然の権利のように、一言の断りもなく手当たりしだい持ち去った。
父がいない母子家庭は絶好の標的だった。母は「あんなによくしてあげたのに---」と唇を噛んだ。父がことのほか大事にしていた蔵書だけは、「あんなやつに奪われるくらいなら」と庭に山積みにして油を掛け、火を放った。
数日後、社宅にいた日本人社員とその家族は家を明け渡し、わずかな身の回りの物だけを持って、市内にある大きな日本旅館に駆り立てられ収容された。日本への引揚船が来るまで、そこで待機するとのことだった。
旅館の外へは危険なので出てはいけないと言われていた。いわば軟禁状態である。一部屋に何家族もがぎゅうぎゅう詰めという生活が始まった。こんな生活がまさか翌年5月まで、9ヶ月も続くことになろうとは、そのときは思いもしなかった。
国民学校(小学校)は、すぐに休校となり、中国の奥地から港を目指して引揚げてくる避難者の収容所になっていた。子供たちは旅館の屋上で馬跳びをしたり、広い旅館内でかくれんぼをしたりして、結構明るく過ごしていた。
大人は夜になると園芸大会を開いたりマージャンに興じたりして、 帰国船の迎えを今日か明日かと待ち続けていた。
そんなある日、深夜、完全武装をした米兵数十人が押しかけ、男の大人全員に拳銃を突きつけて連行していくという事件があった。残された女子供はわけもわからずパニックに陥った。中国人が反日感情に駆られて旅館を襲うという情報があったため、一時、男たちを連行し保護したのだということだった。
そのころのことだった。旅館の屋上から街を見下ろしていると、旅館の周辺が突然騒がしくなり、旅館の回りは大勢の群集で埋め尽くされた。行きずりの日本人らしい男女が群集に袋叩きになっている。
人波が引いた後、 2人は路上に放置され、ピクリと動かなかった。頭の付近から血が流れて いた。市内ではあちこちで日本人を襲う暴動が頻発していると聞かされ た。私たちは恐ろしくて声を上げることも出来ず、息をひそめていた。
<父の帰還>
帰国の日取りが決まったという知らせが届いたのはそんな時だった。連行された男たちもまもなく帰されてきた。旅館中が異常な興奮に包まれた。
大半の人たちはいまや帰心矢の如し。少ない荷物のまとめにかかっていた。だが終戦直前から父の消息が途絶え、依然、不明だった。夫をひとり中国に置き去りにするわけにはいかない、かといって子供は一日でも早く日本に帰したい。
母はこのとき36歳。土地ではよく知られた豪農の娘 だったが、親の反対を押し切って、家出同然、父の許に飛び込んだという 勝気な性格の人だったが、夜も眠れないようだった。
そんなある日の深夜、あたりをはばかるように、こつこつと旅館の裏木戸を叩く者があった。
誰かが2階の部屋に母を起こしにきた。「えっ!」と驚く母の声。ばたばたと階下へ降りていった。私と兄も母を追うように階段を駆け下りた。
途 中で立ち止まり見下ろすと、裏木戸を入ったたたきで、髪ぼうぼう、髭だ らけ、垢だらけで真っ黒な顔をしてぼろをまとった男と母が、人目もはば からずしっかりと抱き合っている。母が声をあげて泣いている。兄と私も 駆け寄って父に縋りついた---父の突然の帰還であった。
後に聞いた事情はこうだ。
父は玉音放送のずっと前(多分ソ連軍ソ満国境を越境侵攻した8月はじめ)関東軍の現地司令部に呼び出され、その場で乾パンと拳銃1丁を渡されて「後は勝手の帰ってくれ」と放り出された。軍と軍属、その家族はトラックに乗ってさっさと撤退していったという。
この国は今も昔も、国民の生命財産の保護と言う国家としての義務を感じない伝統があるらしい。学校帰りの少女が拉致され、海を越えて連れ去られても、きちんと外交交渉が出来ないお国柄である。
ともかく、父はその日から口の利けない乞食に身をやつして天津を目指す。父はまあまあの中国語は出来たが、しゃべれば現地人でないことはすぐばれるので聾唖者を装ったという。
列車などの乗り物は使えなかった。 酷暑の中国大陸を東へ東へとひたすら歩き続ける。大同から天津まで、直 線距離でも350キロ。3ヵ月後やっと家族の許へたどり着いたのだっ た。
「途中3回、拳銃を使った」と漏らしたことがあったが、どう使った のか、父は終生語らなかった。
大同の軍需工場建設に駆り出された民間人の中には、家族を伴って赴任した人も少なくなかった。その中には敗戦後避難する途中、心ならずも幼い子供を現地人に預けることと引き換えに、逃げ延びた人もいたという。残された子供たちはその後どうなったか。
山崎豊子原作、NHKの日中合作テレビドラマ『大地の子』が、子供たちが辿ったであろう戦後をつぶさに描いている。中国残留孤児の親探しの番組が始まると、私はテレビに釘付けになってしまう。
あの時、父と一緒に 大同に行っていたら、私も『大地の子』---残留孤児になっていたかもし れないからだ。紙一重であった。
『大地の子』といえば不思議なことがある。このドラマを見たとき、主人公の残留孤児が話す中国語の会話の半分くらいはすんなりわかるのだ。それは多分、主人公である一心少年と義父との間で交わされる会話が、70年前、丁度同じ年頃だった私と中国人使用人との会話と同じレベルだったからだろう。
ともあれ父の「生還」で帰国はもう掌の中にあると思われた。だが、そうはいかなかった。天津の鐘紡工場(第7廠)は父が電力の責任者だったこともあって、このまま日本人が引き揚げてしまうと工場が動かなくなる。
工場運転のノウハウを現地人に引き継ぐまでは帰さない、足止めされることになったのだった。ほかの家族が次々と旅館を引き払って帰国する中、私たちは父とともに残留する道を選択した。それが、親の反対をふりきってまで一緒になった父が、一時期、行方不明となり、つらい思いをした母の決断であった。
<さらば天津---、帰国>
父はゆっくり休養をとる暇もなく工場に通い始め、現地人の教育に当たった。給料日には大型のトランクいっぱいの札束を運んで帰ってくるのだが、月末にはすっかり使い切ってしまうほどのインフレが猛威を振るっていた。どうせ現金も物も日本には持って帰れないとわかっていたから贅沢に使い切ってしまうしかなかった。
こんな中、母は引揚の日に備えて、一人ひとつずつ、ミシンを踏んでつづら型の大型のリュックサックを作った。これを背負うベルトには高価な絹糸をふんだんに使った。
帰国後、このリュックサックとベルトを解くと大 量の高級絹布と絹糸となって、物ない日本で貴重な米塩の糧となった。近 くの農家から食料を調達するときの実弾となった。
終戦翌年、昭和21年5月、帰国を許された。が、貴金属はおろか現金や債権、家族写真に至るまで持ち出しは一切禁止とされ、持ち出そうとしてばれると帰国できなくなると脅されていた。ところが帰国後、母手製の大型リュックサックを解くと、10数枚の家族写真が出てきた。母が密かに芯地に縫いこんだものだった。
9ヶ月の教育訓練を終わった後、工場運転の技術をマスターした現地従業員が、謝辞を刻んだ記念の楯を父に送り「サイチェン(再会)」と、別れを惜しんだ。
それから四半世紀後、戦後日本人としてはじめて天津を訪れた私の友人が工場もちゃんと動いていた。変電所の礎石に親父さんの名前があった」と報告してくれた。
わが家の住まいだった洋館には現地人4家族が住んで いたという。だが、父と彼らの再会は実現しなかった。大同から天津の家族の許に帰る途中、(多分)やむを得ず使った拳銃(人を殺めたかもしれ ない)にまつわる記憶がトラウマとなっていたのかもしれない。
敗戦翌年。アカシアの花香る5月、一家は天津を出発。港のある塘沽(タンクー)までは屋根のない貨車(無蓋貨車)で運ばれ、そこで荷物検査を受けた。
検査官に金目の袖の下を渡せば、大目に見てもらえるという噂が あったので、父と母は、両腕にいくつもの腕時計をはめて持っていき、こ れはと思ったら、腕から順番に腕時計をはずして検査官の手に握らせた。 中国人の性格を知りぬいた母の知恵だった。
港には米軍の大型上陸用舟艇が待機していた。船底は中国各地から命からがらたどり着いた避難民であふれんばかりであった。大半が着の身着のまま。船底はすえたようなにおいで満たされた。
なかには船酔いで戻す者も いて、その悪臭でこっちが戻しそうだった。残留期間に旅の身支度を整え る余裕のあったわが家族は恵まれたほうだった。午後、塘沽を出港。わが 家族4人は、鋼鉄板の船底にアンペラ(むしろ)を敷いて肩を寄せ合うよ うにして横たわった。
そして夜が明けると「オーイ、島が見えるぞー」。急いで上部甲板に駆け上がると、新緑眩い五島列島が右舷に姿を現した。検疫の後、佐世保港に入港。まもなく上陸、収容施設で握り飯とたけのこの入った温かい味噌汁でもてなされた。そこは間違いなく母国日本だった。私は引揚のごたごたの中で11歳の誕生日を迎えた。
足掛け9年、中国滞在のエピローグである。
後で聞いた話では、上陸すると大人も子供も一人頭千円が手渡され、どこでも勝手に行ってくれと放り出された。
父が10年近く中国で働いた果実は、乾パンと拳銃一丁、それに一人千円、あわせて4千円也。これがすべてだった。
<帰国後の生活>
わが一家は、数日後、列車で父母の故郷である秋田を目指した。佐世保から秋田まで、よく覚えていないが、エッチラオッチラ、一週間近くかかったと思う。
父の生家は、長男だった父が若くして東京に出た後、弟(叔父)が家を継いで百姓をやっていたが、赤紙一枚で徴兵され中国東北部の最前線へ。終戦と共にシベリアへ持って行かれ、留守宅は祖母と叔母が幼い子ども2人を抱えてほそぼそと稲作百姓をやっていた。
そこへ、われわれ一家4人 が転がり込んだのである。敗戦のどさくさで小学4年生の後半は学校へは 行けなかったが、何とか5年生に編入できた。
ご多分に漏れず、農家も食糧難だった。畑で芋やナス、キュウリ、トマトを作り、山に入って山菜やアケビを採り、新米の収穫まで食いつなぐこととなった。
間もなく、生まれて初めての田植えにも駆り出される。父と母は、元を質せば百姓の生まれだから昔取った杵柄、手際はいい。慣れないとはいえ、小学5年生の私と中学生の兄、も立派な労働力だった。
夏。小柄だが目端の利く祖母が、そのころはまだ珍しかったいちごの栽培を始めた。ビニールハウスなどまだない。夜明けと共に、学校へ行く前に畑でいちごを摘む。
取れたてのいちごを大きな背負い駕籠いっぱいに入れ てこれを担ぎ、学校へ行く途中にある集荷所まで運ぶのが私の役目だ。集 荷所までは子どもの足で小1時間。その日の売り上げを受け取り、空に なった駕籠を担いで学校へ行く毎日だった。
草鞋を履くのも初めてなら、駕籠を背負って学校へ行くのもなかった経験であった。荷は肩に食い込み、草鞋の緒で足の指の間からは血が滲んだ。それよりなにより、恥ずかしかった。
紺サージの制服にぴかぴかの革靴で 学校に通っていた天津での生活は、いまやここでは別世界の出来事だっ た。そのうえ、学校の行き帰りには、「引揚者、引揚者」と蔑まれ、いじ めにもあった。それでも田植えで泥まみれになり、田の草をとり、秋には 稲刈りもした。
そうこうしているうちに11月。父の仕事先が群馬・高崎の工場と決まり、半年過ごした秋田を後にしたのだが、この頃には、ずーずー弁もまあまあ操れるようになり、いじめっ子たちとの間にも友情が芽生えていた。高台にある集落を去る日、その日は日曜日だったが、10人ほどの悪ガキが口々に大声で「まだ、こらんしぇ」(また、来いよ)といつまでも手を振ってわが一家を見送ってくれたのだった。
<転校の名人>
昭和20年(1945年)8月、中国の天津市で終戦を迎え、翌21年引き揚げ。21年11月、父の勤務先である鐘紡の工場があった新町に移り住むことになった。
転校初日、紺サージのダブルのスーツに半ズボン、白い綿の靴下に黒の短靴、学生帽と言う典型的な都会のお坊ちゃまスタイルで登校。そのころは引揚者と言うだけで白い目で見られる時代だった。
そこへよせばいいの に、付き添いの母までがシックなダークスーツにハイヒールである。その ころ地元の子供たちはつぎはぎのあたったズボンに下駄ばき、女の子はモ ンペと言うのが相場だったから、この変わったいでたちの親子が、悪ガキ の標的にならないほうがおかしいくらいだ。
転校したその日の下校時、便 所裏に連れ込まれて、6年生数人からぼこぼこに殴られた。中国から引揚 げのとき母が後生大事に持ち帰った制服は、この日の洗礼でずたずたにさ れてしまった。
それから数か月後、6年生のとき、クラスの仲間たちと橋の欄干に並んで腰掛けている写真がある。橋は玉村と新町をつなぐ木造の岩倉橋で、私もひざにつぎの当たったズボンに下駄履きといういでたちである。田舎のガキどもと見分けがつかない変身ぶりである。
新町では橋の上から烏川にみんなで飛び込んで泳いだり、小魚を釣って夕餉のおかずにしたりしたもんだ。私にとっては文字通り「小鮒釣りしかの川---」であった。
そんな経緯で、群馬・新町(現高崎市)に流れついたものの、不思議と中国のことが家族の間で話題になることはなかった。特に父は「3発の銃弾」に触れること避けた。私も人前で中国での話は極力しなかった。
特異 な過去を持つ少年と見られてはならない。小さいときから住まいを転々と し、転校を繰り返したこともあって、私は「転校の名人」であった。この 国では今も昔も、変わった言動、変わった服装をしないこと、つまり、没 個性的であることがイジメをかわし、平凡で穏やかな暮らしを続ける極意 なのだった。
<父母の死>
私が昭和29年、高校を卒業して東京に出た後、両親は父の初任地であり、兄と私が生まれたところでもある鐘紡京都工場に転勤した。まもなく定年退職。
その後、兄は父の後をついで鐘紡へ、私は叔父(父の弟)の勧めもあって放送ジャーナリストの道を選んだ。で、私 が札幌で結婚、長男が生まれてまもなく、母ががんで倒れた。
生まれたば かりの長男を飛行機に乗せて入院中だった母の枕元へ連れて行った。母に とっては私の長男が初孫だった。しかし、まもなく夭折。享年56。大陸を またにかけて苦労を母と分かち合った父は、それから20年を生き抜き、 逝った。喜寿まであと一週間だった。
<ファミリーヒストリー>
5月、私は傘寿を迎えた。中国から引き揚げて丸70年である。私がいまこんな家族の歴史を思い返したのは、恥ずかしながらつい最近のことで、そのときにはすでに両親は無く、詳しいことを確認する術を失っている。
「もっとちゃんと話を聞いておけばよかった」---。
NHKの『ファミリーヒストリー』(毎週金曜 午後10時〜10時50分)は、そんな関心に応えた番組である。自らの出自を知った出演者たちは一様に感動し、涙を流す。
長男はすでに私が父を失った年齢を超えているが、ここに紹介した「家族の歴史」、ファミリーヒストリーを詳しく話したことは無い。しかし、彼もいずれ「自分はどこから来たのか」、孫もいずれそのことを知りたくなる時期が来るだろう。自らの出自を知れば、家族への思いもいっそう深くなるに違いない。(2015・0825)