2015年08月28日

◆平成 27 年度全國學力テストの問題

上西 俊雄



集團的自衞權をめぐる議論で軍事技術の發達により、從來のやうなやりかたではすまなくなったといふ、ごく當然のことを政府が主張するのに對し、野黨が相も變はらず憲法の制約をいふけれど、教育についてはどうなのか。

上田萬年が漢字制限に對する批判に抗して

<世の中の論者は、何ぞといふと漢字の問題に付て、日本は普通教育に於ても、漢字を充分に教へなければならぬ、又其漢字の假名遣の如きものも、成るべく昔通りのものを教へなければならぬ、といふやうな事を論ずる。

其理由を聽くと、清韓教育の爲に、日本人は今後大に仕事をしなければならぬのであッて、清韓教育の爲めには、漢字の智識或は舊來の字音假名遣の如きは、非常に必要なものである、と斯う云ふ事を言ッて居る。

其議論は一應は尤もの樣だが、併ながら其智識は中等教育以上を受けられる人に向ッて望み得べきことであッて、普通教育を以て終る人々に、斯う云ふやうな事は決して望まれないのである。

言換へて見れば、專門教育の上に於て、此知識は充分に養成する價値はあるが、普通教育の上に於ては、斯樣な知識は決して要らないのである。

我々日本人の大多數は、4ヶ年間の教育を以て滿足しなければならぬことであッて、此四年間の教育を以て、日常の生活をして行く所のものである。>

と書いたのは『教育學術界』明治 38年7月號であった。敗戰後の混亂期に漢字制限の宿願をはたした保科孝一は上田萬年の弟子だ。保科は漢字だけでなく假名まで一字一音であるべきだとする表音原理主義を持込み戰後の文部行政の基本を定めたので、我國が正書法を失ひ、そのことが國益を損なってゐること如何ばかりかと思ふのであるが、全國學力テストの場合についてみてみたい。

日經新聞27年8月26日朝刊の記事には次のやうにある。引用の際も支障のない限り漢字制限や假名字母制限は無視して入力した。

<小學6年と中學3年を對象に實施された2015年度の全國學力・學習状況調査(全國學力テスト)では基礎的な知識を問ふ一部の問題で成績が上向いたが、文章や實驗結果を分析したり、自分の言葉で表現したりする力には課題がみられた。これからの學力のカギとなる活用力の育成は道半ば。學校現場には指導方法の一層の改善に向けた繼續的な努力が求められてゐる。>

としてあげられた問題のうち、まづ小學校・國語の例は次の通り。

<次は、讀書のことについて書かれた新聞の【コラム】(筆者自身の思ひや考へなどを述べた短い記事。)です。この【コラム】は、全體の内容が1から5までのまとまりに分かれてゐます。これをよく讀んで、問に答へませう。

\begin{enumerate}

 1▼ 4月23日は「子ども讀書の日」、世界では「世界本の日」とも呼(よ)ばれてゐる。本とその作者たちを敬(うやま)ふとともに、讀書の樂しみを味はふ日である。

 2▼ 子供(こども)のころ宮澤賢治(みやざはけんぢ)の『セロ彈(ひ)きのゴーシュ』に夢中になった。樂團の中で一番へたなセロ彈きであるゴーシュが、動物たちとの出會ひを通して成長していく樣子に心がおどった。

 3▼ ある作家の言葉に「讀書といふものは、その時その時によって讀みの味はひがちがふ」といふものがある。子供時代に讀んだ本を大人になって讀み返すと、また別の樂しみが味はへるものだ。

 4▼ 先日、『セロ彈きのゴーシュ』を再び讀んだ。當時は氣が付かなかった人物の見事(みごと)なゑがき方や描寫(べうしゃ)に、賢治のすばらしを實感した。

 5▼ 世界の人々が本について考へる日。子供はもちろん、かつて子供であった大人も童心に返って本を樂しむ。そんなひとときもよいものだ。

筆者は、自分の思ひや考へを根據(こんきょ)付けるためにある言葉を引用してゐます。それはどの言葉ですか。最も適切な言葉のはじめの五文字を書きぬきませう。>

これをみて改めて驚くのは宮澤賢治に振假名がついてゐるだけでなく、「敬」や「彈」の訓を小學校六年生は知らないことになってゐるといふことであり、描寫や根據といふ語も知らないことになってゐるといふことだ。「見事」に振假名がある理由はわからない。

そのほかに氣になった點がなかったわけではない。「本とその作者たち」といふのは英文法の影響だと思ふ。「別の樂しみが味はえる」とあるけれど、味はふ對象が樂しみであるはずがない。とにかく何らかの興趣を味はふ、それが樂しみなのではないか。小學6年生ではどの漢字まで使用可能かといふことに頭を割けば、筋の通った設問を書くことは難しいに違ひないと同情するものだ。

學年配當表によれば「敬」も「呼」も6年。つまり6年生はまだおそはってゐてはいけない漢字なのだ。これだけのことを調べるだけでも大變だった。

「宮澤賢治」の振假名の最後はもちろんヂでなくジとなってゐる。手許の漢字表は平成22年の文化廳の配布資料。「治」はチのところでなく呉音のヂすなはち制限假名のジのところに配列してあった。ヂはチに統合し清濁を區別せず書くやうにしたので假名は成立したのであるから、ヂをジに書き換へ、チの方で立項してないことは倒錯といふより仕方がない。

露伴が最晩年に音幻論で次のやうに述べてゐる。

<普幻論は、その意味で長年考へてゐたことであるが、その大綱を成就するに及ばないで已に私は耳も疎く、目も殆ど盲するに及んでゐる。それで今たゞ、シとチだけのこと言って、その萬分の一の思考を遠慮しながら一例として述べたまでである。何も自分は言語の上に新古正邪の見を立てようとするのではない。たゞ眞の邦語がどういふものであったかを考へ知りたいと思ふばかりである。>


保科は漢字全廢が目標であったのだから、これだけ漢字の使用を面倒くさいものにしておけば、いづれ嫌氣がさして漢字は全廢すべきだとの輿論が起ると踏んでゐたのだ。

海音寺潮五郎が日本人は女性的だ、さうでなければとっくにGHQ憲法などは振り捨ててゐたはずと語ってゐる。(文言は正確でなく、語ったのでなく書いたのであったかも今確かめてないが、全集についてくる月報にあったこと)。漢字の學年配當を今でも守ってゐることを思へば、この指摘は何ほどかあたってゐると思ふ。私ならマゾヒズムといふところだ。

さて、この問題の正答率は 20% だとある。出題者は非常に易しい問題を出したつもりであったに違ひなり。引用箇所は鈎括弧にくくってある。その冒頭の5文字を書けばよいところになぜ誤答があるのか。恐らく易しすぎたのがいけなかったのだ。設問では「ある言葉を引用」とある。引用箇所はどれかとあれば、迷ふことはないかもしれないが、言葉といふと、もっと核心部分のことを問はれてゐると思ふのが自然ではないか。

設問の最後、「書きぬきませう」も氣持の惡い表現だ。「書け」と單純明解に問ふのがよい。

次に小學校・算數の問題

<たか子さんは、おつかひに行きます。

せんざいを買ひます。家で使ってゐるせんざいが、20\% 増量して賣られてゐました。増量後のせんざいの量は 480mL です。

増量前のせんざいの量は何 mL ですか。求める式と答を書きませう。>

洗劑などといふ言葉は洗濯機が出來てから普及した言葉だ。保科孝一の時代には不要だったかもしれない。とにかく戰後の表記改革が時代に合はなくなってゐること、軍事技術におとらないではないかといふことを言ひたい。

この問題、増量する前の量に1.2を乘じて得られた値からもとの値を求めるだけの話。乘じたのだから除すればよいといふことは未知數を立てて考へるのでなければちょっと難しい。ただ、わざわざ文章題にするほど、もとの値を知りたいものかどうかはいささか疑問だ。

次に小學校・理科の問題

<としをさんは、20℃ の水 100mL を 50℃ にあたためてから、砂糖を入れてかき混ぜました。すると、とけ殘りが出たので、ろ過(か)してから砂糖水を冷藏庫()れいざうこ)で保管しました。次の日、冷藏庫からとり出すと、底に砂糖がたまってゐました。>
とあって、實驗裝置の圖があり、「そこで、としをさんは、水の温度と砂糖が水にとける量との關係を調べました。」と説明が入って、次に砂糖のとける量を縱軸、水の温度を横軸にとった棒グラフがある。そして、男女の生徒がそれぞれつぎのやうに述べ、そのあとに問題が續く。

<としをさん「グラフから、ろ過してとけ殘った砂糖をとり除いた 50℃の砂糖水には、260g の砂糖がとけてゐることがわかるね」

ゆかりさん「水の温度が下がると、砂糖のとける量が減っていくんだね。」

グラフから考へると、砂糖水を 5℃ の冷藏庫からとりだしたときとけきれなくなってたまってゐた砂糖は約何gだと考へられますか。下の1から4までの中から一つ選んで、その番號を書きませう。>

算數の問題のときにも感じたことであったけれど、理科の場合は筆者と同じ名前なのでなほさらいやなのであるが、なぜ姓でなく諱で呼ぶのか。なぜ「さん」づけにするのか。ひょっとしたら男の子でも「君」づけでなく、「さん」づけにすることによって男女の區別をすべきでないといふことを刷り込むつもりなのかもしれない。

さて、ここでも冷藏庫がつかってはならない漢字であることがわかる。濾過といふ語もつかってはゐけないわけだから、實驗のときなど濾紙をどう呼ぶのか氣になった。しかし、本當は實驗など不要であるといふことがよくわかる問題なのだ。

トシヲのいふところをもう一度みてほしい。「濾過してとけ殘った砂糖をとり除いた 50℃ の砂糖水」といふ表現がすでに怪しい。「とけ殘った砂糖を取り除く」といふのは實驗の手順を述べたものとしては不自然だ。さういふまでもなく、結果はグラフから讀み取るのであって、このグラフは實驗とは無關係に與えられたものなのだ。

この後に中學校・理科の問題があるのであるが、表記について特にいふことはない。距離について筆者なら長短でなく大小といふ表現をするだらうなと思っただけである。
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