2015年09月01日

◆中共の呆れたオソマツ技術

平井 修一



小生は中国共産党を激しく憎悪しているが、人民は好きでも嫌いでもない。第一、支那人との交際がほとんどないから、好きも嫌いもない。

文革中に日本に逃れてきた潘さん(女性、美人)は同僚だった。父はフランス人、母は支那人というハーフで、後に米国人と結婚して米国籍をとった。ハーフということでずいぶんと迫害され、常時監視されていたという。英語、フランス語、北京語、日本語に堪能だった。

李さん(男性)は正確には支那人ではなく香港人で、香港観光協会に勤めており、小生は仕事でいろいろお世話になったが、中国返還後の生活に不安を覚えてカナダ国籍を取り、その後日本国籍を取り、華人向けの旅行会社を東京で創業した。華人の日本旅行が急増しているから商売は上手くいっているに違いない。広東語、北京語、英語、日本語に通じている。

あとは馴染の居酒屋の小姐(シャオチェ、お嬢さん)2人と新宿のホステスさんくらいだ。小姐2人は留学生で、なんと「ヒライさん、この前の週末に富士山へ行ってたでしょ」、2人も行っていたという。びっくりした。

小生が知っている支那人はそれくらいだから、支那人を語る資格はないが、終日株屋の電光ボードを見て一喜一憂している写真を見ると、「カネを働かせてカネを儲けるのが本当に好きなんだなあ、みな邱永漢みたいだ」と思ってしまう。

<邱 永漢(きゅう えいかん、1924年3月28日 - 2012年5月16日)は、日本および台湾の実業家、作家、経済評論家、経営コンサルタント。株式会社邱永漢事務所代表取締役。旧本名は邱炳南、帰化後の本名は丘永漢。初期の筆名は邱炳南および丘青台。株の名人で「金儲けの神様」と呼ばれた。

1924年3月、婚外子として日本統治時代の台湾台南市に生まれる。10人兄弟の長男。父邱清海は台湾人実業家。母堤八重は久留米生まれの日本人。

1937年 13歳のとき台北高校尋常科に入学。このころから文学に志して自ら詩を書き、個人雑誌『月来香』を発行。16歳で「台湾詩人協会」の普通会員(最年少)となり、邱炳南名義で詩作を西川満が主宰する『華麗島』創刊号に発表。台北高校の同窓に李登輝がいた。

1942年 内地(現・日本本土)へ。

1943年 10月東京帝国大学経済学部入学。

「文学部ではなく経済学部を選んだことは学校のクラスメイトや教師たちを驚かせた。私の文学かぶれはあまねく全校生徒に知れ渡っており、私が文学部にすすむのは当然のことと思われていたからである。

私がそうしなかったのは、植民地台湾に生まれた私のような人間が将来、文学を志しても生計を立てていく自信がなかったからである」(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)

しかし文学への関心やみがたく、仏文科の辰野隆の講義も聴講した。

1948年 台湾独立運動に関係して中国国民党政府から逮捕状が出たため香港に亡命。このとき、物資欠乏の日本に郵便小包で商品を送る事業を始めて成功を収めた。

1955年に小説『香港』で第34回直木賞を受賞。外国人として最初の直木賞受賞者である>(ウィキ)

氏は支那人ではなかったが、支那人を越える金儲けの神様だったわけだ。それにしても台湾→日本→台湾→香港へ亡命→日本→国民党と和解して台湾→香港→中国→日本・・・波乱万丈だ。最近、氏の遺産相続で税務当局と「見解の相違」があったと報じられていたが、死してもなお波乱万丈だ。

ところで支那人はどうもモノ造りへの関心や腕を磨くことにはあまり興味がないようだ。理系ではなく文系脳なのかもしれない。

「中国製品『そっぽ向かれる』!?ドイツの展示会で実感」(サーチナ8/11)から。

<中国メディアの儀器信息網は9日、ドイツで開催される世界最大の産業見本市であるハノーバー・メッセに出展した中国企業の関係者の手記を掲載し、中国製品は現在、「冷遇され、捨てられようとしている」と伝えた。

ハノーバー・メッセには6500社以上の企業が出展し、18万人以上が商談などのため展示会に訪れるが、「中国企業のブースを訪れる来場者はほとんど見られず、来場者の多くは中国企業のブースまで来ると帰っていった」と伝えた。

さらに記事は、ハイテク製品や技術の専門パビリオンでは、人工知能を搭載したロボットや3Dプリンターなどが展示されていたとしながらも、「同パビリオン内では中国企業は1社も見られなかった」と指摘。

中国国内では製造業の高度化が叫ばれ、「中国製品はすでに世界最先端だという声も聞かれる」としながらも、なぜ「中国のハイテク製品は“戦場”に姿を見せなかったのか」、「まさか中国製品が他社のコピーで、知的財産権を侵しているからなのか」と疑問を投げかけた。

続けて記事は、ハノーバー・メッセの来場者の多くは「中国製品を信用していない」、「関心を持っていない」と伝え、中国企業のブースがあると踵を返して去って行ったと伝えた。

さらに、中国製品は現在、「冷遇され、捨てられようとしている」と伝え、その理由として、「中国メーカーには長期的なビジョンがなく、製品づくりにおいても短期的な利益を追い求めすぎている」ことを指摘。

また、研究や技術、人材を重視せず、道徳や信用、責任もないと伝え、「中国の社会でたびたび指摘されてきた道徳や信用の欠如などが中国製品の世界市場における危機につながっている」と指摘した。(編集担当:村山健二)>(以上)

かなり深刻な状況だが、製造現場では「嘘」や「データ捏造」が日常化し、正しいデータなのか嘘のデータなのかが、現場でも分からなくなっているという。製造業に限らず、中共では何から何まで、上から下まで嘘が蔓延しているのだ。

「航空エンジン『開発失敗史』中国社会の縮図、目標高すぎ虚偽報告横行」(サーチナ8/29)から。

<中国のポータルサイト「新浪網」はこのほど、中国の航空ジェットエンジンの開発を批判する記事を発表した。外国の技術を安易に模倣すること、目標が高すぎて、達成できない技術者らが虚偽の報告をすることなどと、問題点を指摘した。

記事は冒頭で、開発で最初は外国の技術の導入が必要としても、「まず、レベルの比較的低いものを導入し、技術の持つ意味をひとつひとつ完全に理解した上で、次には自らの力で上を目指す」との考え方と、「とにかく模倣する。だめだったら別のエンジンを模倣する。うまくいかなければ外国製を買えばよい」との方針があると指摘。中国は後者だったと論じた。

典型的な失敗例として新型戦闘機「J−13(殲−13)」に搭載される予定だった「WS−6(渦扇−6)」を紹介。1960年代の開発着手だったが、結局は放棄された。記事は、「最大の害毒。その厄災は現在にまで及んでいる」と非難した。

同エンジンには、12.6トンの推力が求められた。WS−6の開発で、「紙の上の設計」は「神速」で進んだが、実際に組み立ててみると、設計上の問題点や部品の精度不足などの問題が次々に露呈した。

しかし「WS−6は必ず完成させねばならない」という要求があったため、何度も作り直しては試運転をした。そのたびに故障が出た。技術者らは、故障をごまかして報告したので、長期間にわたって「WS−6には希望がある」と見なされた。

最後には、開発スタッフも報告のどの部分が正しく、どの部分が欺瞞であるか、分からなくなってしまったという。

WS−6は1980年代に放棄された。中国はその後、新たに「WS−14」の開発に着手した。ところが「WS−6の経験を生かす」との方針となり、WS−14にはWS−6の技術が取り入れられた。

その結果、WS−14は完成したものの信頼性が極めて低く、燃料漏れや出火などを繰り返した。記事は、最新のWS−10の開発も、どのように取り組まれてきたかは「天のみぞ知る」と主張した。

記事は最後に、中国はこれまで航空エンジンの開発に大量の資金を投入してきたが、結局は「数十年にわたる歴史的錯誤のツケを残す」結果になったと批判した。(編集担当:如月隼人)>(以上)

東芝の「利益水増し」が可愛く見えるほどの組織的かつ長期的な偽造。すさまじいというか呆れるほどのモラルとレベルの低さだ。GDPから歴史、報道、製造現場まで、嘘に嘘を重ねた「偽造の楼閣」。崩壊は時間の問題だ。(2015/8/29)

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