2015年09月19日

◆大阪都島区毛馬の「蕪村公園」 

毛馬 一三
    


与謝蕪村は、松尾芭蕉、小林一茶と並んで江戸俳諧を代表する俳人だが、その蕪村の生誕地がどこかという肝腎なことになると、ご存じない人が多い。

蕪村は、紛れも無く大阪市都島区の毛馬橋東詰(摂津東成郡毛馬村)の辺りの出だ。それを顕彰する「蕪村記念碑」が、淀川毛馬閘門側の堤防に立っている。かの有名な蕪村の代表句・「春風や堤長うして家遠し」が直筆の文字で、この記念碑に刻んである。

もう一つの顕彰物は、「記念碑」の立つ毛馬閘門から流れる大川を南へ500mほど下がった所のコンクリート橋に、蕪村直筆で橋名を刻んだ「春風橋」だ。

ところが、かの有名な蕪村でありながら、「大阪人である蕪村」として顕彰するメモリアルは、大阪にはこの2件にすぎない。

これには蕪村自身の生き方にも関わりがありそうだ。蕪村は、享保元年(1716)に毛馬村の裕福な庄屋で生まれたが、幼くして両親と家を失って艱難辛苦、20歳の頃毛馬村を出奔して江戸に出ている。

江戸では早野巴人の弟子として俳諧を学び、師が没した26歳の時から芭蕉の跡を慕って奧羽地方を放浪。宝暦元年(1751)京に移って俳諧に勤しむ一方、南宋画家として池大雅と並ぶ名声を得ている。

京で68歳の生涯を閉じたが、終生故郷の毛馬村には帰っていない。この毛馬村の情景を詠った「春風馬堤曲」という文がある。これは生まれ故郷を懐かしく想いながら、脳裡の中でその当時の毛馬の情景を想いながら綴ったものと考えられている。

このように大阪とはすっかり縁遠くなった蕪村だったから、いまだに大阪には蕪村に関する伝承の文献も殆ど無ければ、生誕地に関する資料すら皆無だ。これが長い間、大阪で蕪村を顕彰する「資料館」さえ作られなかった理由だった。

しかし、10年頃前から俳諧趣味の会や都島区内を中心に、地元俳聖蕪村を大々的な顕彰しようという関係者の運動が活発になりだした。

そこで、大阪市「ゆとりとみどり振興局」が18年度から2年計画で、前述の「記念碑」と「春風橋」の中間にある市有地1.1hrの土地に、約2億5千万円をかけて「蕪村公園」を作りあげた。

もともと「蕪村公園」には、蕪村の俳句や絵を紹介する「東屋」を建てる計画だったが、この「東屋」が建つと、浮浪者の宿舎になる恐れがあったため、建設は断念された。このため「俳句講座」など開催する場所は、残念ながら出来なくなったことになる。

しかし公園内には大きな広場に「蕪村生涯歴史版」と「蕪村俳句石碑」、その周辺には蕪村の俳句や絵に因んだ花木の植栽をすすめている。そして大阪が輩出した蕪村に親しみを取戻し、また俳句愛好家にも集まってもらって、「俳句つくり」を楽しむ場所にしたいとしている。

「蕪村公園」は、その後順次見事に整備され、我々のNPO法人主宰の「蕪村顕彰俳句大學」が、兜カ學の森とも共同して、毎年開催の「蕪村顕彰俳句大会表彰式」で選ばれた「優秀句の記念プレート碑」を、今年9月18日にも11期目の「プレート碑」として建立し、除幕式をおこなった。記念樹建設も協力している。

同公園は、全国的に知られた大阪桜の名所・「毛馬桜の宮公園」の北端に位置し、「毛馬閘門」から市の中心地中之島に通じる大川沿いの桜回廊の出発点になっている。また学生レガッタ練習や「花見遊覧船」の折り返し地点でもある。

いま諸文化混迷から抜け出そうと必死の大阪市が、同公園の整備をきっかけに、桜回廊と同じ華やかな大阪俳句文化の振興をしたら、大阪俳人の蕪村本人もご満足ではないだろうか。(了)

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック