2015年10月03日

◆阿部定事件の年生まれ

渡部 亮次郎



阿部定(あべさだ)事件とは仲居であった阿部定が1936(昭和11)年5月18日に東京都荒川区尾久の待合茶屋で、性交中に愛人の男性を扼殺し局部を切り取って持ち歩いた事件。

猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹いた事件である。現在では日本では多くの人が「阿部定」という単語を聞いてこの事件を想起する人は少ないだろう。

私の父親より2歳上の定だが、事件の起きた昭和11年は私の生まれた年。1ヶ月後に「2・26事件」が起きて世の中が騒然となっている年の5月に起きた猟奇事件。世間はどう反応しただろうか。

あれから79年。今となっては霧の彼方の事件。尤もかの平凡社「世界大百科事典」にはさすが、記述があった。

<1936年5月18日,東京の荒川区尾久町(現,東尾久)の三業地内の待合まさきで,中野区新井町で小料理店を経営していた石田吉蔵が,石田の店の女中をしていた阿部定(当時31歳)と数日間を過ごし,情痴の果てに殺された。

殺した阿部定は血文字を残し,男根を切りとって逃走したので,猟奇的な怪事件としてジャーナリズムが大きく報道した。

右翼青年将校が重臣顕官などを暗殺したクーデタである二・二六事件のあとなので,阿部定事件は国民の気分転換に役立てられたのである。

阿部定は20日に品川駅近くの旅館に潜伏中捕らえられた。少女時代から男好きでいわゆる不良少女だった阿部定は芸者,女郎,私娼の生活を転々として犯行に至ったのである。

太平洋戦争(大東亜戦争)中に刑期を終えた阿部定は出所後料亭などで働いていたが,75年ごろから消息がわからなくなった。>加太こうじ筆。

阿部定はは、1905(明治38)年5月28日東京市神田区新銀町(現在の東京都千代田区神田多町)出身。現在は消息不明扱い。

定は江戸時代から続く畳屋の末娘として生まれる。神田尋常小学校(現在の千代田小学校)に進学する前から三味線や常磐津を習い、相模屋のお定ちゃん(おさぁちゃん)と近所でも評判の美少女だった。

15歳(数えのため満14歳)の頃、慶應義塾大学に通っていた大学生と初めて性交(2人でふざけているうちに強姦されてしまった)。出血が2日も止まらなかったという。

16歳の頃初潮を迎えた。初潮前に強姦されたのもその後不良少女になってゆくことに関係しているだろう。本人の弁によれば「娘でなくなって(処女でなくなって)しまったのだから、どうにでもなれと思った。このことを隠してお嫁に行くことなんて考えたこともなかった」そうである。

その後横浜や長野で芸者として働いていたが、座敷に出ると客に性交を強いられることが多いのが厭だった。20歳になると定は自ら進んで遊女に身を落とした。はじめは飛田新地(大阪)の遊郭に在籍。

その後は度々トラブルを起こしては店を変え、大阪・兵庫の娼館を転々。事件の3年前に丹波篠山の遊郭『大正楼』から逃げ出し、神戸でカフェの女給をしてから名古屋に渡り、高級娼婦や妾や仲居をして過ごす。

名古屋市内の料亭で仲居をしていた頃に知り合い交際していた、名古屋市議会議員の大宮五郎から、まじめな職業に就くようにと諭され紹介されたのが奇しくも石田吉蔵の経営する東京・中野の料亭・吉田屋であった。

定と石田はまもなく不倫関係になり、石田の妻もこの関係を知るようになると2人は出奔。

阿部定事件において愛人の石田吉蔵を殺害した殺人罪で逮捕された定は拘置所に入る時まで吉蔵が事件当時に身につけていた下着と吉蔵の血で汚れた腰巻を身につけていた。

拘置所で汚いので差し出すように言われた際は「これはあたしと吉さんのにおいが染み付いているの、だから絶対渡さない」と大騒ぎをした。

裁判の結果、事件は痴情の末と判定され、阿部は懲役6年の判決を受けて服役。刑務所での作業は他人の2倍はこなす模範囚であった。この頃、さまざまな思想本を読み、日蓮宗に帰依。1941年に「皇紀紀元2600年」の恩赦で出所。間もなく日米開戦。

「世間から変態、変態と言われるのが辛い」と逮捕直後からもらしている。その後7年程は刑事から与えられた吉井昌子という偽名を使い生活。サラリーマン男性と結婚(入籍はしていない事実婚)し茨城県に疎開、終戦後は埼玉県川口市に居住。

1969年に製作された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』(石井輝男監督)に63歳の定本人が出演しており、「そうね、人間一生に一人じゃないかしら、好きになるのは。ちょっと浮気とか、ちょっといいなあと思うのはあるでしょうね、いっぱい。それは人間ですからね。けどね、好きだからというのは一人…(以下略)」と言葉を残している。世間から事件を好奇心の目で見させない真実を伝える映画にするということとを約束した上での出演であったという。

その後、1974年前後の3ヶ月間、浅草にある知人の旅館で匿まわれていたという証言を最後に消息不明である。とある老人ホームに入っているらしいという情報や、京都の尼寺で亡くなった・琵琶湖畔で老衰のため亡くなった等、諸説流れているが生死は不明のままである。

また、1987年頃までは、吉蔵の命日には身延山久遠寺に必ず定からと思われる花束が届いていた。出所後、身延山久遠寺に定は石田吉蔵を永代供養の手続きをしている。しかしそれ以降は花が供えられることもなくなったため、その頃に死亡したのではないかという説もある。

阿部定ゆかりの場は現在では殆どが他の建物に変わっているが、遊女人生の最後を過ごした丹波篠山の遊郭『大正楼』の建物は現存している。大正楼では「おかる」、「育代」と名乗った。

客層が非常に悪く、真冬も外に出て客引きをしなければならず、定の7年間の遊女時代で一番辛い職場だったそうだ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック