2015年10月08日

◆古墳時代の「木津川地域」

白井 繁夫


木津川の右岸で世紀の大発見と騒がれた約1700年前の「椿井大塚山古墳:木津川市山城町椿井」が、昭和28年(1953)3月にJR奈良線の改修工事中に発見されました。

この古墳の前方部と後円部の境目に鉄道が敷かれており、改修工事により崖面の中程の地層の奥から石室を発見して、天井石を取り発掘を進めると、そこから驚くべき事柄が起きました。

と云うのは、「邪馬台国女王卑弥呼(ひみこ)の鏡」と推察できる「三角縁神獣鏡」が30数枚を始め、副葬品としての鉄刀、鉄剣などの武器類、武具、農工具類等が、大量に出土したのです。

この年の木津川地域は夏から秋にかけて、2度も未曾有の大水害に遭遇しました。木津川左岸の木津町は木津川に架かる国道24号の泉大橋が流失(8月15日)し324町歩が冠水して、人的、物的被害が甚大となり、更に9月には台風13号の暴風雨に追い打ちをかけられました。

局地的集中豪雨による南山城一帯の被災者は死者330人超、重軽傷者1700人超、罹災者は3万人弱の大災害でした。

まさに、「人類による歴史の偉大さと、人類に対する自然の脅威とを同時に眼前に見せられました。」と当時のことを知る、古老が語ってくれました。

弥生時代の大畠遺跡(相楽地域の集落の母村)以降、前方後円墳の前期古墳時代(3世紀末〜4世紀)が始まりますが、地域の首長墓として盛土をした墳丘墓や古墳は、左岸の木津町では発見されていません。

日本最古の前方後円墳は、大和の現桜井市に築かれた3世紀末の「箸墓(はしはか)古墳」(全長280m)です。右岸の山城町には前述の「椿井(つばい)大塚山古墳」が4世紀の初め、箸墓古墳の三分の二の大きさ(全長約190m)の同形古墳として出現したのです。

この古墳の被葬者は大和政権にとって、重要な役割或は絆を持った豪族か首長であったと推察されます。それは、この地域の地形と『記』『紀』の物語(古事記、日本書紀)などからも推察されます。

地形からの推察:大和の国の北の丘陵を越えると、そこの平野部には木津川が流れ、宇治川、淀川経由で西は瀬戸内、北は近江(琵琶湖)から日本海、東は(三重経由)東海道へと、さらに中国大陸から、蝦夷地まで伸ばせる古代の交通の要衝です。

前期古墳時代の各地域の首長の宝物は、銅鏡の中国鏡「三角縁神獣鏡」が絶対的でした。

この椿井大塚山古墳出土の鏡と同形の鏡(同笵鏡)の配布先(分有する古墳)は九州(9)、中四国(10)、近畿(16)、中部(9)、関東(4)にあります。各地域の王(首長)と繋がりを持つ役目を大和政権は、大塚山に与えて全国的な広がりを築いたと思われるのです。

(弥生時代に首長が祭祀に用いる重要物は銅鐸でしたが、前期古墳時代は磨鏡の中国鏡となり、後期古墳時代になると鉄刀、鉄剣などの武器、武具や宝石、装飾品に変化しました。)

古墳時代の木津川地域を古代の律令郡制で云えば三つの地域、久世郡、綴喜郡と相楽郡に
古墳群がありました。

大和の大王が全国的な展開をするためには、北の玄関港(泉津)、即ち南山城の木津川市と木津川流域を確保しないと、物流も情報も得られ難くなるのです。(南西の大和川を利用する水上交通では、大量の物資を運ぶ物流ルートに困難な個所があったのです。)

大和政権は、木津川を勢力範囲に組み入れた後(4世紀後半〜5世紀前半)、北部の奈良山丘陵に巨大な前方後円墳の佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群を築いています。

「宝来山古墳(伝垂仁陵:227m)、五社神ゴサシ古墳(伝神功皇后陵:275m)、佐紀陵
山サキミササギヤマ古墳(伝日葉酢媛ヒバスヒメ陵:207m)、佐紀石塚山古墳(伝成務陵:218m)」

大和政権は、木津川流域の各首長(豪族)と戦うか、或いは絆を結んで畿内、瀬戸内を掌握しました。それから椿井大塚山から北へと進み、日本海を望む丹波地方の巨大古墳(網野銚子山古墳:約200m、神明山古墳:約180m)の王と縁を結び、山陰から、北陸道諸国も平定したのです。

『記』『紀』の物語(古事記、日本書紀):

<崇神天皇10年、武埴安彦(たけはにやすびこ)の反乱:四道将軍の大彦命(おおびこのみこと)が、北陸道へ平定に行く途中、大和と山代の境、平坂で御間城入彦(ミマキイリヒコ:崇神天皇)の命が狙われている云々の童女の童謡(わざうた:政治等の風刺謌)を聞き、山代の国へ派遣している武埴安彦の謀反を知る。

崇神天皇は、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく:和珥氏の祖)を戦場へ派遣。那羅山(現奈良坂)から南山城(山代)へ進軍、輪韓河(わからがわ:→挑河いどみかわ→泉河)で相対峙し、武埴安彦の忌矢(いはひや)は外れたが、彦国葺の矢にあたり戦死する。

反乱軍は総崩れになり北へ敗走するが、官軍に追撃され斬り殺された処が羽振苑(はふりその:現祝園)、更に、彦国葺の軍は伽和羅(かわら)で敗走兵の甲冑を脱がすと、彼らは恐怖で褌に屎を漏らした。(屎褌→久須婆→樟葉:訛ってくずは)>

武埴安彦の妻吾田媛(あたひめ)が固めていた西国道も、やはりその時敗れました。

『記.紀』によると4世紀末:忍熊王の謀反

<忍熊王(おしくまのみこ)と兄の香坂王(かごさかのみこ)が神功.応神に謀反して失敗する。また、大和東北部(佐紀古墳群)に本拠地を持つ和珥氏の伝:応神天皇側の将軍として、和珥氏の祖先(建振熊命:たけふるくまのみこと)が山背(山代)南部を拠点とする忍熊王の軍勢との戦いで、これを打ち破った。>となっています。


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