2007年05月24日

◆地球の裏側から来た津波


                      渡部亮次郎

地球の裏側から来た津波とは「チリ地震津波」のこと。今から47年前の今日(5月24日)だった。1960年のこと。三陸一帯で142人が死んだ。私はNHK仙台中央放送局報道課所属3級放送記者だった。

津波襲来は文字通り、寝耳に水であった。地震が来たら津波を疑えとは教えられていたが、地震は無かったはず。起こされて放送局へ駆けつけると当直だった先輩の高野悠(ひさし)記者が叫んでいた。

地球の裏側のチリという国で大地震があり、それによって起きた津波が1昼夜かけて三陸沿岸を襲ったのである、と。

私は録音機を携帯して単身、宮城県北部沿岸の女川(おながわ)港に派遣された。途中、塩釜駅を見上げたら、跨線橋の上に漁船が乗っていたので目が覚めた。

このチリ地震は 1960年5月22日午後7時19分(日本時間同年5月23日午前4時11分)、チリの太平洋沖を震源として発生した地震だが、日本を含め環太平洋全域に津波が襲来したもの。

地震発生から22時間後に最大で6メートルの津波が三陸(東北地方北東部)海岸沿岸を中心に襲来し、142人が亡くなったり行方不明になった。被害がとくに大きかった岩手県大船渡市では津波により53人が亡くなった。

47年前のこととあって記憶も怪しいが、宮城県内のある町では、海に水が無くなったと叫ぶものがあって、バーの客たちとママが慌てて見に行ったら、そこへ来た津波に攫われてそれっきりという悲話もあった。

岩手日報(07.05.17)によれば、チリ地震襲来直後を写した写真が岩手県陸前高田市で発見された。2003年に77歳で亡くなった大和田秀雄さんが写したもの。

同時に残っていた「自分史」のよると・・・


「1960年5月24日午前3時55分ごろ、津波だという大声に起こされた。地震も無いのに津波とは不思議に思っていたら突然、津波が襲来。慌てて階段を駆け上がり屋根に避難した。

潮が引き始めたところでカメラを手に海岸へ。水が無くなった海底。引き潮が海底の低いところを川のように流れて行く。太平洋に海水が全然無い。どこまで波が引けたのかその端が見えない・・・」。岩手県だけで62人が死んだ。

もともとチリでのこの地震は後で調べれば、マグニチュードは8・5(モーメントマグニチュード9・5)と、有史以来観測された中で最大規模の地震であった。

まず前震がマグニチュード7.5で始まり、マグニチュード7クラスの地震が5〜6回続いた後に本震がマグニチュード8クラスで発生した。また余震もマグニチュード7クラスであったために、首都サンティアゴ始め、全土が壊滅状態になった。

地震による直接的な犠牲者は1743名。負傷者は667人。また、アタカマ海溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2・7メートル沈み込むという大規模な地殻変動も確認された。また有感地震が約1000キロメートルにわたって観測された。

日本では地震による津波の被害が大きかったわけだが、一方で度重なる津波被害を受けた田老町(現在の宮古市)では高さ10メートルの巨大防潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。

この巨大防潮堤は過去最大規模の1896(明治29)年6月15日の明治三陸地震津波や1933(昭和8)年3月3日の津波の体験から、町民の生活を犠牲にした指導者の大決断によって築かれたもの。30年後にモノを言った。そこで少なくとも岩手県沿岸にはチリ地震津波以後、すべてのところに巨大防潮堤が築かれた。

女川に着いたところで、小さな津波が何回も襲ってきた。なれない手つきで録音機を回して、人々の阿鼻叫喚を録音した心算だったが、自分自身、逃げ回っていたせいで、録音機は空回りしていた。

何日目かに「被災地で集団赤痢発生」のニュースを送ったが、その夜、私もかかっていることを知った。半生、2度目の罹患であった。
この1ヵ月後、転勤が発令された。なんと岩手であった。其処に4年も居ることになるとは。

地球の裏側から突然やってきた津波(遠隔地津波)だったから、これに対する認識が甘かった事が指摘されたため、以後、気象庁は体制を組みなおした。

海外で発生した海洋型巨大地震に対しても、たとえばハワイの太平洋津波警報センターと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになった。参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2007・05・23
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