2015年10月16日

◆与謝蕪村の新212句見つかる

毛馬 一三



江戸時代の俳人与謝蕪村が詠んだ、これまで知られていない212句を収めた句集が見つかった。

の俳句集は、江戸時代後期に俳人や画家として活躍した与謝蕪村の弟子がまとめたもので、昭和時代の初期まで存在は確認されていたらしいが、その後行方不明になっていた。

ところが4年前、この句集は奈良の天理大学附属天理図書館が古書店から購入し、それを所蔵する奈良県の大学や専門家が、貴重な資料だとして研究していた。ところが最近になって、収録されている1903句中から212句が、蕪村の新しい句が分かったのだ。

このことを天理大学附属天理図書館が、14日に発表した。来年蕪村生誕300」年の「年」を迎えるために、記念行事事業を進める準備えを進めている筆者は、驚いた。

これら212句のうち、「傘も化て目のある月夜哉」、「我焼し野に驚や屮の花」、「蜻蛉や眼鏡をかけて飛歩行」)という句がある(読売新聞)。

蕪村を研究している関西大学の藤田真一教授は、「ぼろぼろになった傘の穴から月の光が差し込みお化けの目のように光っている様子を表現したユーモラスな句で、化け物を好んで題材にした蕪村らしい句だ」としている。

藤田教授は、「これだけの数の句がまとまって見つかりワクワクしている。蕪村の評価が進むことを期待したい」と話していた。筆者自身も親交のある藤田教授に、14日夕直接電話して「意外性」を確かめて処、「見つかったのは衝撃です。蕪村の残した手紙などと照合すれば、212句の時期や場所がわかるだろうし、愉しみです」と話してくれた。

ところで、蕪村が、芭蕉、一茶と並んで「江戸時代の三大俳人」であることや、「生誕地が大阪毛馬村であることを知ってひとは少ない」。生誕日は分からないものの、来年の生誕300年を控えてきたため、改めて蕪村に関して追々。

与謝蕪村は、江戸時代中期の享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれている。

蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸に下ったのか。これすら未だはっきりしない。蕪村が飛び出した先は、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。

ところがが、どうしてこんな超有名な俳人に師事し俳諧を学ぶことができたのか、田舎の毛馬村と江戸との結びつきや、師匠との今謂うコネがどうして出来たのか、ミステリーだらけだ。この時蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。

<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。

その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。

京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蕪村は、師匠の早野巴人の弟子以来、京都や大阪などを吟行し、これまでに生誕地に一度も足を踏み入れていない。

蕪村が生まれたのは、毛馬村の裕福な庄屋(問屋・宿屋も共営)。母親は京都丹後から出て来た庄屋の奉公人で、庄屋主に愛されて生まれたこどもの私生児だった。

庄屋に娘がいたが、蕪村への家業の継承の話は一旦出たこと在ったものの、むしろ他の奉公人からのきつい苛めにあわせられ、生誕地毛馬村との接触も徐々に薄れて行った。しかも幼くして両親を失ったため、私生児扱いの蕪村は艱難辛苦を重ね、結局生家には居られなくなった。

これが17歳のころ出奔して江戸へ下った主因だろうが、蕪村が生涯生誕地に戻らなかったのも、この幼少時代の悲痛心が導いていると思われる。

このような悲壮な幼少にくらべ、今回発見された句が「お化けを連想したりして遊び心にあふれた句」を作った蕪村の楽しむ心境を知りたいとおもい、212句のあたらしい句に早く接したい。

なおこの俳集は、10月19日から11月8日まで天理大学附属天理図書館で公開されるので、出かけてみたい(了)。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック