2015年10月29日

◆「万葉集」に軍事メッセージ

毛馬 一三



韓国の百済の都扶余の遺跡から、618年に作成された「出挙(すいこ)」の木簡が、発見されている。

「出挙」とは、作付けの季節に農民に利子つきで貸出した「種もみ」を、収穫の秋に利子分を含めた作物を現物で回収する制度で、木簡には農民毎に回収した「作物の量」が記録されている。

勿論木簡は、日本では飛鳥時代以前の古代遺跡から、全く同じものが既に発掘されている。

つまり、中国から発祥した貴重な税収制度が百済を通じて、日本へ導入されていたことの証だが、もし百済と日本の間に当時、緊密友好な外交関係がなかったら、日本へこうした国家構築に属する機密情報が、伝わって来なかったであろうと想像に難くない。

この韓国の発掘記事を読んだとき、以前になるが(1989年11月)、日本と百済との「秘めたる繋がり」の逸話を話してくれた、韓国の著名女流作家のことを思い出した。

同作家は、李寧煕(いよんひ)氏。韓国大手新聞社「韓国日報」の政治部長・論説委員長から国会議員(1981年)を経て、韓国女流文学会会長を歴任。

筆者は、「韓国日報」からの紹介で、李氏が来日した折、2日間奈良県桜井の「万葉の道」やその周辺の「古代天皇の古墳群」散策の案内役を務めた。その際李氏が、こもごもに語ってくれたのが、この「万葉集」に秘められた「軍事、政治的なぞ」の話だった。

李氏によると、日本の「万葉集」と関わりを持ったのは、国会議員だった当時、日本の高校の歴史教科書に韓国関係記述が歪曲されているという問題が提起されたことから、日韓両国の国会議員による特別委員会が設けられ、事実の調査を始めたのがきっかけだったと言った。

つまり、歴史書が歪曲されているかどうかに迫るには、どうしても古代史にまで遡って検証する必要があり、そのために両国の歴史書に目を通すうち、李氏は日本の「万葉集」に魅せられたという。

ここから「万葉仮名」の研究に惹かれたらしいのだが、「万葉仮名」で書かれた「難訓歌」や「未詳歌」、つまり日本語で判読出来ない歌のほとんどを、"実は韓国語で読む"と、総て読み通せることを見つけ出したというのだ。これは当時では大発見に違いなかった。

帰国した李氏から、筆者に李氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊1989発刊」が送られてきた。読んでいくうち「日本語訳では見えない様々な謎」が書き込まれて居たことを思いだす。その中で、特に目を見張らせる下記のものがあった。

<万葉集20巻、4516首の内に、日本語では判読できない、正式に「未詳歌」とされている3首があり、このうちの1首に恐るべきメッセージが織り込められている。斉明天皇(655年即位)の意中を、額田王(ぬかだのおおきみ)が歌にしたのが、それである。

◆原文:  金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念<巻1の7・未詳歌>

・日本語よみー(秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 刈廬(かりいほ)し思ほゆ)

この歌は、従来からの「日本語解釈」では、次のようになっている。
(秋の野の 萱(かや)を刈って屋根を葺き 旅宿りした 宇治のみやこの 仮の庵が思われる)。

ところがこの解釈では、額田王が何を言いたいのか、さっぱり意味が伝わってこない。だからこの歌が、解釈不能または解意不明なことから、公式に「未詳歌」とされたのも当然であろうと思われる。

そこでこの祥らかでないこの歌の原文を、李氏が韓国語で読んでみた・・・。すると、
(徐伐『そぼる』は 鉄磨ぐ 締め苦しむること勿れ 上の都は 刀来るぞよ 陣地固めよ)

・韓国語訳―(新羅は刀を磨いで戦いに備えている。締め苦しめないといいのに・・・。吾がお上の、百済の都は、敵が襲ってくるから、陣地をお固めなされ)。>
ということが明らかになった訳だ。

李氏の韓国語解釈をそのまま読むと、これは斉明天皇が百済に送った「軍事警告メッセージ」ということがはっきり分かる。

だとすれば斉明天皇が百済に対して、これほどまでの機密「メッセージ」を送らなければならなかった理由とは何か、その疑問にブチ当たる。

<皇極天皇(斉明天皇と同じ・斉明天皇は二度即位)から斉明天皇の時代は、朝鮮半島では、新羅、百済、高句麗の3国の間が緊張状態にあった。

この歌(皇極時代の時の648年に入手していた情報)は、斉明天皇に即位してから額田王に歌として作らせたものといわれるが、百済が新羅・連合軍に滅亡させられた661年より13年も早くからこの事態を予測していたことになる。

当然百済が滅亡する相当前から、この「新羅の不穏な極秘情報」を、斉明天皇は歌に秘めて百済に伝達していたに違いない。即ち人一倍百済の存亡に長年心を砕いていた斉明天皇なら、国家存亡に関わる極秘情報を百済に提供しない訳は無い。

実は斉明天皇は、百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、百済を援けるため、難波(大阪)で武器と船舶を作らせ、自らその船に乗り込んで瀬戸内海を西に渡り、百済とは目と鼻の先の筑紫(福岡)の「朝倉宮」て新羅・唐との戦争に備えた。しかし斉明天皇は、遠征軍が百済に向かう前、失意の内に亡くなっている。

斉明天皇の異常なまでの「百済ひいき」について日韓学者の一部には、斉明天皇は「百済第三十代武王の娘の宝」で、百済最後の王、「義慈王の妹」だったとの説がある。>

上記説も考えられないこともない。恐らく斉明天皇自身、あるいは親族関係と百済との間に何らかの強力な繋がりが現実に在ったとしたら、「万葉集」歌に秘められた「軍事警告メッセージ」の存在も真実味を帯びてくる。

「万葉集」を古代の珠玉日本文学と仰ぐ人たちにとっては、この韓国語読みは認め難く、あくまで額田王作の「未詳歌」としてしか受け入れられないかもしれない。

しかし、このあと白村江の戦いの敗戦(663年)まで百済救国にこだわり続けてきた日本の歴史を見れば、日本と百済との関係は極めて緊密であったことを証明していることになる。

だとすれば、万葉集愛好家方々も韓国語で読み明かされる「万葉集の新たなメッセージ」に興味を抱かれことも、「万葉集」の珠玉の枠を更に広げることにはならないだろうか。(了)

参考―・李寧煕氏著書「もう一つの万葉集・文藝春秋刊」
   ・小林恵子著「白村江の戦いと壬申の乱・現代思潮社」
   ・ウィキぺディア
                             
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