2015年11月06日

◆日本が大きく変わった 祭が観光化した

加瀬 英明



夏が終わった。夏は祭の季節だ。

だが、この3、40年あまりで、日本が何と大きく変わったことだろうか。

かつて祭は、氏神と氏子のものだった。

それが、観光のためだけの見世物――イベントとなってしまった。

ここでいう「イベント」は、日本語化した英語だ。いまの日本では、金儲けのための罠を仕掛けることを生業(なりわい)としている、猛々(たけだけ)しい「イベント屋」が跋扈(ばっこ)して、生活文化を混乱させている。

もとの英語のイベントは、起るべき必然性があって行われる催しものである。だから、その国の歴史や、地域の文化に根差している。

日本社会から男らしさが失われた
 
日本社会から男らしさが、失われるようになっている。

祭太鼓を女が打ったり、女が御輿(みこし)を担ぐようになったのは、興醒めだ。太鼓を打ったり、重い御輿を担ぐのは、男だけの役割で、男の力を誇示するものだった。

 いなせな若者といったら、男のことだった。気風(きっぷ)がよく、粋(いき)な男らしい男は、女性が女らしかったから、その対照として存在した。女性といえば控え目で、はにかみ、しおらしかった。

3、40年前までは、まだ、竹久夢二の絵のように、なよなよと撫肩(なでがた)をして、うれいをたたえた女性が、少なくなかった。夢二は大正の人だが、夢二の女は江戸の浮世絵のなかに描かれた女と、変わらなかった。

今日では、若い女性といえば、目と肩を怒(いか)らせて、まるで男になったようにいばって、街を歩いている。いつのまにか「女だてらに」とか、「女のくせに」という、よく日常の会話のなかで用いられていた言葉が、死語になってしまった。

男が女性化し女が男性化した

若い女が堂々と臍(へそ)を丸出しにして、太股(ふともも)を露わにした服を着て、恥じることがない。いつのまにか、男女の服装のあいだの差がなくなった。

テレビのビールのCMで、若い女があられもなく、ジョッキを高く勢いよくあげて、呷(あお)る画像がよくでてくる。女からつつしみが失われた。女性として適当ではない振る舞いのことを、「あられもない」といったが、いまではこの言葉もまったく使われなくなった。

しばらく前に、あばずれの女大臣が、大相撲の土俵を踏ませろと息巻いて、断わられたことがあった。

江戸時代を通じて、大相撲は初日以外は、女人禁制だった。明治に入ってから、女性に対する規制が緩められたが、千秋楽は男たちだけが入場を許された。

いまでは、女性が精力に満ちているのに対して、男たちは生気を失って、悄然(しょうぜん)としている。かつて男は、我慢した。自制して寡黙であることが求められたが、このごろでは女のように饒舌になっている。


1970年代に、高倉健主演の任侠映画『仁義なき戦い』シリーズが、一世を風靡(ふうび)したが、弱きをたすけ、強きをくじく男らしさが、男女を問わず、ひろく観客の共感を呼んだ。誰もが、高倉が演じる主役の男気に酔った。

高倉健の男らしさが男だ

日本では男らしい男が、男の理想像とされた。

西洋人は動物的だから、「男らしい」manly(マンリー)といったら、ハリウッドの連作映画の『ランボー』の主役のシルベスター・スタローンのように、筋骨隆々とした、肉体が逞しいmacho(マッチョ)な男のことをいう。

ところが、日本で男らしいというと、心の問題で、肉体が貧弱で、老いて性的に不能であっても、男気(おとこぎ)があれば、男らしいといわれた。男らしさも、女らしさも、心のありかたによってはかられた。

演歌のなかでは、男気に対して、女気(おなごぎ)――女の心がうたわれた。男と女の役割がはっきりと、分かれていた。

日本の女性が装う着物は、世界でもっとも絢爛(けんらん)で、高価なものだ。これほど美しい、豪華な女の衣(ころも)は、世界に他にない。

和服は、北京の故宮と呼ばれた紫禁城で歴代の皇妃や、ヨーロッパの宮廷で、マリー・アントワネットをはじめとする皇女たちが纏(まと)っていた衣装と、比較にならないほど、華麗なものだ。

故宮のチャイナドレスも、ベルサイユ宮殿で女たちが妍(けん)を競ったローブデコルテも、朝鮮のチマチョゴリも、ただ纏っていれば、美しい。だが、和装は何よりも着付けが、大事だ。日本のほかに世界のどこにも、着物の「着付け教室」が存在していない。

そのうえ、着付けだけではない。女性としての一挙一動、正しい立居振舞たちいふるまい)が求められたから、着る者の心が何よりも重要視された。

日本では女性がしとやかであるかぎり、男が男らしかった。

女が女らしさを失い、男に男らしさが求められなくなって、日本から雄々しさが失われた。

日本の独立国としての存立

これは、日本の独立国としての存立を、危ふくするものだ。

日本は歴史を通じて、武がつねに尊ばれた国であったのに、いまでは武が疎(うと)まれて、軽んじられるようになっている。

江戸時代を通じて、260年にわたって泰平の世が続いたのにもかかわらず、武士たちは武事を何よりも重んじて、万一の乱世に対して、片時(かたとき)も尚武の精神を忘れることがなかった。

日本は中国、朝鮮と、まったく違っていた。

朝鮮は無気力な国だったが、日本が日清戦争に勝つと、それまで清の属国だったのを独立させたために、はじめて大韓帝国と称することができた。

日本は片時も武の精神を疎(おろそ)かにすることがなかったからこそ、幕末に入ってから、欧米列強の脅威を撥ねのけて、植民地となる運命を免れた。

そして、日清、日露戦争の2つの大きな国難に見舞われたが、乗り切ることができた。

尚武の精神が、日本を守った。幕末の代表的な志士の1人だった吉田松陰は、29歳で「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」(『留魂録』)という辞世を遺して没しているが、その生涯は武人としての覚悟によって貫かれていた。

このところ、日本では中国と韓国が日本に対して、傍若無人に振る舞うようになったために、嫌中、嫌韓感情がいやおうもなく強まっている。

ところが、今日の日本は中国、韓国によく似るようになっている。

中国と朝鮮では歴史を通じて、武人が蔑(さげす)まれた。中国でも朝鮮でも、文が武の上に置かれて、一流の人士は武官とならなかった。

中国では暴力による易姓革命が繰り返されて、皇帝の姓が頻繁に変わった。簒奪者(さんだつしゃ)は武力を用いて帝位を奪ったから、どの王朝も武官を警戒したために、重用しなかった。

独立とは文武両道によって成就する

朝鮮も、同じことだった。高麗朝の将軍の李成桂(イソンゲ)は1392年にクーデターによって、高麗朝を倒して、朝鮮最後の李朝をひらいた。そのために反乱を恐れて、兵備を整えることを嫌った。国家が危機に曝されるたびに、宗主国だった明や、清の救援に依存した。

秀吉による文禄、慶長の役(1592年〜98)が起ると、日本軍の侵攻によって国土の大部分が蹂躙(じゅうりん)されたが、明に出兵を要請して、かろうじて救われた。

1892年には、李朝は東学党の農民の反乱を、自力で鎮定することができず、清の救けを仰いだために、日清戦争を招いた。

今日の日本は、まるで歴代の朝鮮王朝になったように武を疎んじて、ひたすらアメリカによる軍事保護に縋(すが)るようになっている。

安保関連法案に反対する集会で、作家の大江健三郎氏が「70年にわたって日本を守った平和憲法が壊れる」と挨拶したが、アメリカ軍が日本を護ってきたのであって、「平和憲法」によるものではない。

大江氏には朝鮮服が、よく似合うはずである。
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