2015年11月18日

◆中韓「朱子学」VS 日本「陽明学」

平井 修一



中韓は「朱子学的思考行動」、一方で日本は「陽明学的思考行動」という論考があった。朱子学と陽明学・・・小生は勉強したことがない(中公新書の「荻生徂徠」は3回読んだがまったく理解できなかった)ので、今日は「知命立命 心地よい風景」というサイトに学んだが、それによれば、こういうことらしい。

<そもそも陽明学と朱子学は相対する学問ですが、いずれも根本は孔子の儒学です。

儒学は“修己治人”(おのれを修め人を治める)を目標にした実践的な教えであり、前漢代に国教化され、やがて難解な解釈を繰り返すだけのものになっていきます。

そんな中、11世紀に南宋の哲学者朱子(朱熹)が儒教の体系化を図り、上下の秩序・大義名分を重んじ礼節を尊ぶ思想として新儒教“朱子学”(道学、宋学)へと練り上げていきます。

8つのサブコンセプトからなり、「格物・致知」が学問のヴィジョンを、「誠意・正心・修身」が徳行を、「斉家・治国・平天下」が行動を表す。

こうしてできた朱子学は「格物致知」“物に格(いた)る知”の学問といわれ、格物致知、理気二元論(先知後行)、身分秩序、を重視し、封建社会を支えるための大事な学問でした。

“格物致知”とは、物の道理を窮め知的判断を高めることで理想的な政治を行うということです。

“先知後行”とは、人間の知(知識・学問)と行(実践・行動)の関係は、先後(平井:優先順位)からいえば知を先とし、軽重(平井:重要事項)からいえば行を重とすることで、“知”と“行”とは一致しない、即ち学問は学問、行動は行動、と割り切った二元論とすることです(科挙は知識人偏重、現場は軽視)。

“物をよく見よう”(平井:現状を見よう、14億の民を統治するのに一党独裁以外に方法があるのか、という論理)が一転すれば非常に保守的になり、社会・国家生活でいうと現在の生活や秩序を是認してかかる傾向にあります。

それぞれが住むパーソナルスペースが非常に居心地よく、社会全体に対する欲求や変化を強く望まないため(平井:多くの人民は一党独裁しかないと多分思っている)、批判は出てもそれが政治推進にさしたる影響を持たないという状況です。

これは支配階級からいえば便利で非常に都合がよい考え方ではありますね。日本でも徳川幕府が林羅山に命じて朱子学を導入したことからも、しかもその徳川幕府が260年続いたことからもよくわかります。

そういった意味では、戦後の日本社会においても知識(過去からの常識、行動様式)が重視されている傾向にあります。

“自由な発想で好きなことをやっても良い、ものごとは自分で判断しろ”とは言うものの、実際の社会の枠組みや仕組みは依然として知識偏重で、“突出した個性や性向を嫌う傾向”からは抜け出せていません。

従って知新は少なく、物事を如何にして変えていくか、そのためにどうするかといった発想が行動に結びつき難い傾向になるのです。

朱子学は、明の時代に国家公認の学問として神格化され、批判が適わない権威を持ってきます。

人々は活発な意見を出し合う事が出来ず、朱子学だけが絶対で、儒教の教えは朱子学で解釈され、その解釈は否定することを「否定される」という形式的で窮屈な生活を強いられます(韓国のように社会的に抹殺される)。

時代の為政者達が何故好んで朱子学の方を採用してきたのか、どうして陽明学の説を採用しなかったのかがこれで良くわかると思います。

陽明学は、中国の明代に王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なるもので、王学、心学あるいは明学、陸王学ともいわれます。王陽明は朱子学の解釈を否定し、権威に従うのではなく自の責任で行動する心の自由を説きます。

陽明学は“物を格(ただ)す心”の学問ともいわれており、「心即理」「致良知」「知行合一」を説き、朱子学の(平井:過去からの知性・理性・伝統・常識・体制を意志・感情よりも重視する)主知主義に対して実践を重視しました。

陽明学の心即理とは、心を“性”(天から賦与された純粋な善性)と“情”(感情としてあらわれる心の動き)に分別した上で“性、情”をあわせた心そのものが“理”に他ならないという考え方です。

致良知とは、“良知”(万人が心の内にもつ先天的な道徳知であり、また人間の生命力の根元でもあるもの、人間に先天的に備わっている善悪是非の判断能力)を全面的に発揮することを意味し、これに従う限りその行動は善なるものとされる上、“良知”に基づく行動は外的な規範に束縛されないという考え方です。

知行合一とは、知(知ること)と行(行うこと)は同じ心の良知から発する作用であり、分離不可能であるとする考えです。要は、知って行わないのは、未だ知らないことと同じであり、いくら知識があっても行動が伴わなければ意味がなく、実践重視が肝要であるということです。

これは一転すれば、非常に変革、革命的になりますし、社会生活、国家生活でいえば現在の如何にかかわらず、終始己れの良心に顧みて、自分の思索判断から現実を直ちになんとか処理してゆこう、変革してゆこうという態度になりますね。

この解釈が行き過ぎると、現在の有様は必ずしも正しいとは言えないので、間違っているならこれを力ずくでも正して行かなければならない、という極めて極論的な考えを持つ傾向が出てきます。

これは支配階級からいえば、非常に都合が悪く危なくてしようがない考え方ですね。

自分たち(支配者)のしていることを直ぐには受け入れないで、「自分で考えて、こうしなければならぬ」ということになると、どこまでもそれを通す主義となるので、自然と陽明学は日本では必ず遠ざけられてきました。

陽明学は中国では廃れていきますが、王陽明の学問は日本へと渡り、日本陽明学として大成していきます。

日本の何がそれを受け容れたのかは単純に整理できるものではありませんが、その思想・学問・考え方が、武士道や神道、仏教、禅、果ては明治キリスト教と習合しながら発展していったと思われます。

あらゆるものを習合しながらその大事なエッセンスをうまく取り入れていくのは、日本人特有の優れた(平井:アバウト、鷹揚な)感性と特質ですが、それが陽明学においてもうまく生かされてきた訳です。

日本に伝わった陽明学は王陽明の意図に反して反体制的な理論ばかりがクローズアップされてきているため、体制を反発する者や、自己の正義感に囚われて革命運動に走る者に好まれてきた傾向にあります。

幕末期の儒家・備中松山藩の山田方谷もこうした危険性を憂慮し、朱子学を十分に理解した上で、朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にしか陽明学を教授しなかったそうです。

「大塩平八郎の乱」で有名な大塩平八郎は、山田方谷と共に佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいます。佐藤一斎は、儒官としての立場上朱子学を奉じてはいたものの、陽明学の思想が練り込まれている“言志四録”という著作を書き上げています。

これは幕末の志士と言われる吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助といったところに大きく影響を与えたとも言われています。

日本陽明学の全盛期は幕末よりも明治維新以降だったようで、前出の幕末陽明学の再興の動きが、欧化政策の反動として高揚したナショナリズムや武士道見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけてピークを迎えたと見られています。

当時の陽明学は、日本国民の精神修養の一環として「死生を逸脱した純粋な心情と行動力とを陶冶する実践倫理」として説かれる傾向が強かったようです。

従って、この端的なものが三島事件などにも見られ、日本では未だに右寄りな“革命哲学としての陽明学”として認知されてしまっているのではないかと思われます>(以上)

朱子学は「頑迷固陋保守」に流されやすいが、時代を切り拓くイノベーション(革新)は陽明学的な「純粋な心情と行動力とを陶冶(磨く)する実践倫理」によってなされるようである。

伊東乾氏の論考「中国・韓国と日本を分けた朱子学と陽明学 中韓にノーベル賞が取れない理由〜團藤法学から日本の卓越性を探る」(JBプレス11/9)から。

<(私は)このところ「中国や韓国、台湾や北朝鮮の現状を見るに、ノーベル賞などの評価に相当する研究成果を期待するのにはいくつか明確な難がある可能性」を指摘しています。

誤解のないように再三強調しておきますが、これらは各々の国の文化や民族性、個人の資質などを指してものを言っているのではありません。

党が指導しドグマが承認しなければ是認されない意思決定システム、全体主義的な体制、個人の自発性や自由な創意工夫を尊重しない空気・・・端的に言うなら「不十全な学術ガバナンス」が懸念される学術研究行政のもとでは、有産な成果を期待するのは難しい、という観測を示しているものです。

事実、これらの国を飛び出し、自由の天地で存分に力を発揮して、大きな成果を挙げている人・・・科学者であれ、文学者、芸術家であれ・・・は枚挙の暇がありません。

拙劣な学術ガバナンスの状況で、有産な成果が得られにくい・・・。当然のことであると同時に、これはまた、日本も同様に拙劣な研究行政の状況に陥るなら、同じような情けないことに容易に陥りう得るいう、警句を発しているつもりです。

問題は、ある体制内での意思決定の機構、あるいはそれが持つ規範の性格です。その意味で「朱子学」「陽明学」という團藤重光先生が指摘された東アジアにおける2つの端的な「官学」の差異を取り上げたのです。

あえて乱暴に言うなら「朱子学」とは「律令国家」で文書主義を重視すべく改革された儒学で、だからこそ官学として適切だった。

そしてその社会を支えるのは第1次産業、灌漑農法による米生産と、それに従事する圧倒的多数の農民を統治する、はっきり書いてしまえば「弥生時代以来」とも言える循環型社会を保守する訓古学として成功した「モデル」と言えます。

日本でも戦国の動乱を生き抜き、江戸幕府を開いた徳川家康が、長く太平の世、つまり循環的で乱高下には乏しい、しかし農業生産には適した治世を保つべく朱子学を官学に指定し、江戸幕府は260余年の命脈を保つことができた。

これに対して東アジア社会で「実体が変化するときは、規範もまた動く」として革命を支持する学となったのが陽明学であったと考えましょう、というのが「陽明学モデル」にほかなりません。

太平の世であれば、朱子学に基づく循環的=停滞的な封建農村支配が順調に回転することで「繁栄」が約束されます。しかし乱世にはそうした理法は通用しません。

ここで「乱世」とは、単に戦国時代だけを指すのではありません。

イノベーションを念頭に置けば、私たちが生きている現代の毎日、時々刻々がR&D(リサーチ&デベロップメント;研究開発)の乱世そのものであって、そこで生き馬の目を抜くリサーチ・ウオーズに勝ち残っていくには、文書主義程度まで進化した弥生時代崇拝という「朱子学モデル」、つまり伝統思考の停滞型意思決定、権威尊重で前例墨守の思考体制は、圧倒的に不利だ、ということを言っているのです。

文献として遺され、未来を拘束する規範としての「最高裁判例」。それが固定的で停滞したくびきとして日本を縛るのでなく、時代に即して動的に変化するチャンスを与えるもの。それこそが(最高裁判例にある)「少数意見」である。

そこからあらゆる変革、革命が生まれる余地が出てくる、これこそが、戦後の新憲法体制下で日本がGHQと対峙して一歩も引かなかった「陽明学」の精神の骨法である・・・。

こうした趣旨のことを「反骨のコツ」を上梓した後の團藤先生は、口癖のように繰り返しておられました>(以上)

「リサーチ・ウオーズの時代」。少数意見や異端、邪道に「ダイヤモンドの大きな原石」があったりする、ということだ。朱子学的中韓は「俺が正義、俺が道徳、それに反する奴らは悪であり不倫だ、叩くべし」というのが基本的価値観だから、みんな多勢に無勢の「多勢」に与する。

結局、70年以上前からカビの生えた、ほとんどミイラ化した娼婦云々、抗日戦云々に頑迷固陋にしがみついている。一歩も前進しない。バックミラーを見て運転している。これでは事故るわな。他人に迷惑かけずに自損事故で逝ってくれ。(2015/11/17)

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