石田 岳彦 (弁護士)
今年もあとわずかになってきました。
やはり、奈良県の最大の魅力は、昔からの寺社の建物、仏像、絵画、工芸品等の文化財や古墳等の遺跡であり、その魅力をアピールするのが一番だと思うのです(蜘蛛型巨大ロボットを呼ぶ等して散財し、大コケした横浜市の開港記念博覧会を見ると、特にそう思います。)。
今回は「南明寺」の回です。
「南明寺」があるのは、奈良市の中央部とその東方の柳生の里(有名な柳生一族の本拠地ですね。今は合併によって奈良市内になっています。)を結ぶ柳生街道沿いになります。
以前にも1度行きましたが、その際には内部は公開されておらず、本堂の外観だけ見て帰ってきましたので、今回の特別開帳に合わせて、改めてお参りすることにしました。
近鉄奈良駅を出てバス停に着くと、既に行列となっていました。「南明寺」、または同じ柳生街道沿いの円成寺(運慶作の大日如来像等、国宝を2件も持っています。)の特別開帳に向かう参拝客です。
知名度からいって円成寺(私見ですが、国宝が1件あるのとないのとでは知名度に数倍の差が出てきます。)に行く人が大半かと思ったのですが、意外なことに円成寺の最寄りの忍辱山(「にんにくせん」と読みます。円成寺の山号です。)バス停で降りたのは半分ほどでした。半分は「南明寺行き」。意外です。
「円成寺には行ったことがあるが(円成寺の場合、今回行われた秘法の特別公開は兎も角として、境内と国宝2件は基本的に常時公開されています。)、「南明寺」には行ったことがない」という微妙にマニアな層が「南明寺」に大挙して向かっていたということでしょうか。
円成寺から更に10分ほどバスに揺られ、「南明寺」の最寄りの阪原バス停に着きました。渋滞がなければ近鉄奈良駅から30分ほどです(ちなみに我々の乗ったバスは奈良公園付近で大渋滞に巻き込まれたので50分ほどかかりました。)。
バス停から3分ほど、最近立てられたと思しき案内板に従い、集落の中の道を歩くと寄せ棟作りの瓦屋根の建物が見えてきます。「南明寺の本堂」です。
鎌倉時代に建てられたもので、国の重要文化財に指定されています。
お寺の建造物というと、組み物(柱の上に置かれて梁を支える構造)の複雑さが見所の1つですが、こちらの本堂は写真を見ればお分かりのように、このうえなくシンプルなつくりです(後述の縁起話を聞いた後だと、実用的でない部分に金銭を使う経済的余裕がなかったのだろうかと思ってしまいますね。)。
とはいえ、やはり何かしらの風格を感じます。
これは別に霊的な何かというものではなく、柱・梁等の部材の古さに加え(鎌倉時代の建物となれば、創建当初の部材は少数で、大部分は途中の修理により、後補の部材に代わっているとは思いますが、それでも数十年から数百年の風雪に耐えていることになります。)、
土壁の塗り方、屋根に載せる瓦の製法の違い(国宝、重要文化財クラスとなると、修復にあたっても、極力、昔のとおりの手法、製法で復元することが要求されます。)といったものが、全体として、そこらの建物との「違い」というか、「歴史」を感じさせているのでしょう。
拝観料を払い、本堂の中に入ります(いつものごとく堂内撮影禁止なので、残念ながら写真はなしです。)。ちょうどお寺の方(寺を管理している近所の方という感じです)による解説が行われていました。
それによると、鎌倉時代、近隣の寺が何箇所か廃寺になったため、そこで祀られていた仏像をまとめて安置するために建てられたお寺が「南明寺」とのこと・・・・・・・。
お寺の縁起というと、聖徳太子、行基、空海、円仁(天台宗の第3代座主。唐に留学して「入唐求法巡礼行記」を著す。日本各地を実際に巡ったこともあってか、師匠で宗祖の最澄よりもこの分野では人気者?です。)といったビッグネームが「名前を使うだけなら只だと思っているだろう」と言いたくなるくらい頻繁に持ち出され、摩訶不思議な霊異譚で飾られることが多いのですが、ここまで正直というか、現実的というか、不景気な縁起というのは初めて聞きました。
「実際にはこれと同様」というケースは腐るほどあると思いますが。おそらく。
なお、受付でもらった参拝のしおりによると、一応、「南明寺」にも「飛鳥時代に天竺からやってきたバラモンが云々」、「その後、信西が再建して云々」という「普通」の寺伝もあるそうです。
もっとも、「境内から鎌倉時代以前の遺構、遺物が発見されないため、実際には鎌倉時代の創建と考えられている」とのことでした。それにしても、何故、信西の名前が出てくるのでしょうか。よりによって。
史実に関係なく、有名どころを持ってきて縁起話をこしらえるのであれば、もっとふさわしいというか、無難な人物はいくらでもいると思いますが。
信西(藤原通憲)といえば、後白河上皇に仕え、保元の乱で崇徳上皇方に勝利した後、部下の源義朝(義経と頼朝の父親ですね)に対し、敵方についた実の父と弟達(この乱では源氏、平家とも敵味方に分かれての戦でした。)の首をはねるように命じた件があまりにも惨いということで(その復讐として、後の平治の乱で義朝に殺されることになります)日本史上の嫌われ者といってよい人物ですけど。
確かに信西の名前を出すくらいなら、「鎌倉時代、近隣の寺が何箇所か廃寺になったため、そこで祀られていた仏像をまとめて安置するために建てられた」と正直に話す方がまだマシでしょうか。
それはさておき、本堂中央に祀られている本尊は、平安時代に作られた薬師如来坐像(重要文化財)で、高さ84.2cmとやや小ぶりなものの、端正で形のよく整った仏像です。
薬師如来というと、脇侍の日光菩薩・月光菩薩にボディーガード役の十二神将をお供にされるのがデフォルトですが、「南明寺」にはこれらの神仏の姿はなく、本尊薬師如来の左右は四天王が固めています。
参拝のしおりによると、この四天王像は本来、四天王として作られたものではなく、十二神将像のうち4体のみが残った結果、四天王として扱われるようになったのではないかとの不景気な説もあるようです。不景気な縁起話を持つ南明寺には似つかわしい説と言ったら怒られるでしょうか。
四天王は全体的にずんぐりむっくりで、ご本尊に比べると、よくいえばユーモラス、悪くいえば拙いという印象です。
本尊の左右には、重要文化財の釈迦如来座像と阿弥陀如来座像があり、ともに140cm前後とご本尊よりも1回り大きいため、間に挟まれたご本尊が一層小さく見えるような気がします。別にそのような効果を狙ったわけでもないでしょうが、何気にご本尊の肩身が狭そうです。
サイズが同程度で、座っている蓮華座のデザインが似ている(蓮華座だけ後補という可能性もあります)ので、対で作られたのかとも思ったのですが、しおりによると、平安時代のそれぞれ異なる時期に作られたとのこと。
本堂の向かって一番左側には140.5cmの地蔵菩薩坐像。明治になってから近所の廃寺から運びこまれたとのこと。廃寺の詳しい経緯は書かれていませんでしたが、当麻寺の回でも述べた廃仏毀釈の爪痕でしょうか。
今回は特別に一般公開されていましたが、南明寺本堂内部の拝観には、通常は事前の予約が必要です。
もっとも、今回の盛況を見ると、春夏の観光シーズンに公開すればそれなりに参拝客がいるようにも思えます。
近くにある柳生の里は十分にネームバリューがありますし、柳生街道沿いには「円成寺」、「南明寺」以外にも国宝・重要文化財を有する社寺も多く、上手く宣伝して知名度を上げ、交通の便を改善すれば、観光客も増えるのではないでしょうか。(終)