白井 繁夫
北方に木津川を望む台地で弥生時代から営まれてきた上人ヶ平(しょうにんがひら)遺跡(木津川市州見台8丁目)は古墳時代、奈良時代を通じて栄えた複合遺跡です。
上人ヶ平遺跡の背後地.奈良山丘陵の南麓には佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群があり、そこには200m超の巨大な前方後円墳(墳長275mの五社神古墳:伝神功皇后陵を含む)が8基もあります。上人ヶ平遺跡は大和と山城の国境に位置し、木津の平野に突き出た台地上に在る古代から水陸交通の要衝でした。
前回は複合遺跡の為、弥生時代から古墳時代の前期を経てヤマト王朝と木津川地域のいろいろな関りがあり継体天皇になり、更に大和政権と深くつながって行った説明の前置きが長くなってしまいました。
今回は上人ヶ平遺跡の説明を記述いたします。
弥生時代後期から古墳時代前期にかけては、竪穴式住居や穀物などの倉庫をもつ集落が営まれていたと思われる住居跡や弥生土器も出土しました。
古墳時代中期から後期にかけて、この遺跡では17基の古墳が築造されました。形成年代は5世紀中葉から6世紀前葉が中心です。中期以降の木津川市内では前方後円墳の築造はなく、円墳か方墳です。ヤマト王朝の影響を受けたと思われます。
(木津川流域を見ると、5世紀まで平川王家は久津川古墳群:平川車塚(180m).芭蕉塚(166m)などの前方後円墳を築造しましたが、それ以降は築造されなくなりました。)
上人ヶ平遺跡の特徴として前回触れましたが、上人ヶ平1号窯は府下で埴輪を焼いた最古の窯で、近隣の瓦谷遺跡の3基の埴輪窯も同時期です。大和政権と関係する佐紀盾列古墳(前期後半〜中期後半)の円筒埴輪の長方形の透かし穴や河内王朝の古市古墳群にもこの地区で焼いた円筒埴輪と調整手法が5号墳出土と同形の埴輪が出土しています。
上人ヶ平の埴輪窯(トンネル状の登り窯)は全国的にも最古級と云われています。
木津東部の州見山(くにみやま)古墳群:瓦谷古墳群、西山塚古墳群、上人ヶ平古墳群は
小地域の首長墓でもあり、その配下に埴輪製作者を含む造墓集団がいたと推察されます。
上人ヶ平の古墳群は、円墳と小型方墳(10m長前後)が多数を占めますが、当古墳中で最大級の5号墳(円墳)について、簡単に発掘調査内容の概要を下述します。
5号墳は古墳時代中期後半(5世紀後半)に築造された造り出し付円墳(直径25m、高2.3m)で造出部は幅8.5m、長2.6mです。墳墓の周溝(幅約7m)を含む径は33〜36mです。(上人ヶ平遺跡公園内の5号墳は調査後、地表に出ていた状態で保存されています。)
5号墳の墳丘は2段に築かれ、上段(2段目)斜面と造出部に葺石が葺かれ、テラス部と周溝の外側に埴輪列をめぐらせていました。
墳頂の南東部の墳丘に盛土をした上に沢山の中.近世の墓が営まれており、これに伴う石が多数ありました。(上人ヶ平遺跡は室町時代以降中.近世まで神聖な聖地であったか?)
出土遺物は土師器(小型丸底壺.二重口縁壺)、形象埴輪には蓋形(きぬがさがた)埴輪:貴人に差し掛ける傘を模した形や甲冑形埴輪、家形.馬形埴輪など、円筒埴輪、朝顔形埴輪なども出土しました。古墳時代中期後半(川西編年W期前半)の埴輪が出土。
上人ヶ平遺跡は奈良時代になると平城宮造営用の瓦を供給するため、大規模な瓦生産コンビナートの拠点になり、大型の掘立柱建築の瓦生産工場が建設され、6.14.15号方墳は造成により削平され埋没しました。
6.14.15号墳は古墳時代中期後半の一辺が10m前後の小型方墳です。埋葬主体部は破壊されていて不明ですが、川西編年W期後半の埴輪が出土し、5.7.8号墳同様動物埴輪、家形埴輪、器財埴輪などの形象埴輪で祀りが営まれ、円筒埴輪.朝顔形埴輪も出土しました。(上人ヶ平の台地は古墳時代中期〜後期この地域を支配した王者の墓域であったか)
奈良時代の遺構は平成元年(1989)の調査で大規模な瓦工房がみつかりました。
掘立柱建物10棟.井戸.土坑などあり、台地の中央部に南北並列に建つ4棟の掘立柱建物は各棟が9間X4間(柱間各10尺)の大建築物で軒を接し、柱筋を揃え整然と配置されていました。
建物内部の大きな空間を利用して瓦の成形.乾燥などの製造工程を行い南に隣接する谷の斜面にある市坂瓦窯(8基)で焼成されて平城宮へ供給する一貫システムを採った奈良時代の国営瓦工場でした。 『発掘成果速報 1990年府立山城郷土資料館』
元明天皇が藤原京から平城京へ遷都(710年)した事による平城京用建築資材は、木津川左岸の泉津から3本の官道で都へ運ばれたが、奈良山丘陵の北部丘陵では都の宮殿.官衙.寺院.役人の邸宅等の屋根瓦供給に、最先端技術の一大コンビナートが営まれました。
上人ヶ平遺跡の市坂瓦窯跡を含めた奈良山瓦窯跡は国境の奈良市歌姫町と京都の木津川市にある瓦窯跡で、総面積は約3.8万m2になります。平成22年(2010)に歌姫瓦窯跡と京都府木津川市の4ヶ所(音如ヶ谷瓦窯跡.市坂瓦窯跡.梅谷瓦窯跡.鹿背山瓦窯跡)と合わせて国の史跡に指定されました。
木津川市の南西から東へ相楽台の音如ヶ谷瓦窯跡(おんじょがたに)4基は法華寺の創建瓦を供給、州見台(くにみだい)の市坂瓦窯跡8基(上人ヶ平遺跡公園内)は平城京の大膳職(だいぜんしき)へ供給(官窯)、梅見台の梅谷瓦窯跡7基は興福寺創建瓦を供給、鹿背山(かせやま)の鹿背山瓦窯跡2基の4ヶ所です。
(平城京用に丸瓦.平瓦.鬼瓦など屋瓦を造.改築用にも大量生産していました。)
奈良県側は奈良市歌姫町の歌姫瓦窯跡6基からなり、半地下式の平窯で奈良時代末の平城宮用官窯です。平城宮の造.改築用屋瓦を供給。
上人ヶ平遺跡の市坂(いちさか)瓦窯群は幅が約10mの狭い谷の南北両岸斜面に8基あります。発掘調査は保存のため、北の2号と南岸の8号のみでその他は未調査です。
(全てが奈良時代後期の半地下式のロストル式平窯と考えられています。)
瓦を焼く焼成室へ効率よく炎を導入する分焔柱や焼成室床面のロストル(火床)など、
工夫を凝らして均一の品質で大量に製品を生産できる最新技術を編出したと思われます。
2号窯と8号窯は同時期に築造されており、8基ともに時期差なく造られて、上人ヶ平瓦工房と一体になって効率よく運営されていたと思われます。
1.2.3号窯の窯尻には共有する排水溝も検出されており、合理化された効率よい運営方法が採られていたと推察されます。官窯の市坂瓦窯群は8世紀後半の平城宮大膳職の造営に使用されていました。
上人ヶ平遺跡は竹藪などで覆われていましたが、関西学研都市の建設時、竹林を切り開き整備して、上人ヶ平遺跡公園として、現在は遺跡が保存されています。 (了) (郷土愛好家)
参考資料: 木津町史 本文篇 木津町。
上人ヶ平古墳群.市坂瓦窯跡.上人ヶ平遺跡 木津川市教育委員会
木津町上人ヶ平5号墳 現地説明会資料 京都埋蔵文化財調査研究センター