2015年12月14日

◆日中国交正常化余聞

渡部 亮次郎



1972(昭和47)年9月20日田中角栄首相らを乗せた全日空特別機は、北京を目指して羽田を飛び立った。同乗して同行するNHK代表の私にとっては、沖縄(本土復帰前)に次ぐ2度目の海外取材だった。

数年後、私が猛烈な高所恐怖症であることを自ら発見するが、今も飛行機に乗るのは平気である。故迫水久常経済企画庁長官は、当時の池田勇人首相に訪米同行を命じられ、恐怖の為一睡もできず、ワシントンまで下を向いたままだったと私に回想したことがある。

わが田中首相は畿内で数十分眠った。大平正芳外相と二階堂官房長官は眠らなかった。特に外相は中国側との会談の手順を考えたら眠るどころの話ではなかったらしい。

空港から北京市内まで、並木の根本から地上1mぐらいの高さまで白い石灰のようなもので消毒してあるのが珍しかったが、バスの中では尋ねる人とて無い。

割り当てられホテルは人民大会堂に近い確か民族飯店460号室だったが、洋服箪笥の背が高く往生した。シャワーも同様。後で調べたら建国直後に招いたソビエト技術者が自分たちの背丈で設計したものだった。

日中の国交正常化とは世界情勢上、どう位置するかとか、国益にとってのプラス、マイナスなど考えたことも無い。中国へ来たいなどと思ったことも無い。私は海外取材ならまず、アメリカへ行きたかった。(アメリカ初訪問はNHK退職後の1973年だった)。

当然、中国語は全く知らない。それでも部屋を出たり入ったりするので部屋番号だけは係りに聞いた。「スールーリン」。あれから40年近く。いまだに「トウフーリャンツラン渡部亮次郎」とともに覚えている。韓国では「ドーブー」になる。

話は前に戻る。出発に先立って外務省報道課から注意があった。「新中国の人々はチップを受け取りませんから絶対出さないように」。ところがバスを降りて運転手に西日本新聞の記者が金貼りのライターを差し出した。

運転手きょろきょろ周りを見たあと奪い取りようにしてポケットにしまった。約2万円の損害である。いまさら冗談だった、返せと言えないからである。日本外務省の「取材」の浅さは今も昔も変わっていない。

かの人民大会堂。3000人は収容可能という大宴会場。周恩来首相の招待だ。出てきたメインデッシュが「海鼠の醤油煮」うまれて初めて食した。演奏される歌に角さんの郷里新潟にちなんで「佐渡おけさ」が出る事は、政府の会議を裏取材して知っていたが海鼠の出る事は知らなかった。あまり歓迎しない客への料理らしい。

役人は主人が出す者は文句を言わずに口にするものという日本式に解釈して問題視しなかったのではなかろうか。2月に来たニクソンは断った代物だった。中国に舐められたのだ。

到着2日目に各社から1人が選ばれて、田中首相の宿舎「迎賓館」に招かれて入った。小学校しか出ていない角さん、よせばいいのに漢詩を色紙にかいていた。あとで専門家から大いに貶された。

日中首脳会談の中身について二階堂官房長官の発表は連日、「発表できる事はありません」。支那事変と満洲事変で日本が中国に与えた被害について「迷惑をかけた」と言っ。

周恩来が怒って「それは道路で撒いていた水が女性のスカートに掛かって謝った程度の意味」と抗議して大平がその夜はメシも喉を通らなかったことなどは北京にいるうちは丸秘だったのだ。

それに対して角栄首相が「気にしなさんナ、対策は明日考えればいいことと慰めた。だからインテリは使い物にならんのだ」と嘆いたことは帰国後分かったに過ぎない。

交渉はほぼ詰まったらしく、角さんらが万里の長城へ登ることになった。朝起きが早すぎたので460のベッドにひっくり返ったら眠ったらしい。慌てて下へ降りたらバスは出発済み。タクシーたって当時は1台も走っていない時代。怪しげなフランス語で交渉したら
共産党の指示でガタガタの車が迎えに来た。

どんなに急ごうとしても時速40キロしか出ない。北京郊外を出ようとしたら下肥を担いだ男に逢った、日本人一行が行きすぎたと思って安心してでてきたら、まだ日本人がいたというわけ。中国農業のレベルを知らされた。

万里の長城にはなんとか間に合った。NHKには各首脳に半径2mまで近づける「近距離記者」はわたししかいないのだからあわておってきたわけさ。

一体、中国共産党にとって党員以外はすべて敵である。遠距離記者は首脳らに20m以上は近づいてはならず、日本のカメラマンたちが携行した望遠レンズにはすべて仕込み銃が仕込んである如く1本1本を手にとって検査した。呆れた。

そうかと思うと、NHKの持ち込んだTV中継者の夜間の管理をさせず中国側が管理した。案の定、夜間に中継者を分解し、ノウハウを盗んだのである。ネジが見つからずNHKの技術者たちは嘆いていた。嘘と盗みの民族?

そういえば田中訪中の直後、コマツへブルドーザー3台の発注があってコマツを歓喜させた。ところが注文はそれっきり。3台を分解して真似たブルを大量生産したのである。

共同声明の調印が成り、一行は周恩来首相に案内されて上海を訪問した。上海派の顔を立てなければならなかったらしい。帳春橋が市長と称して迎えに出た。間もなく「4人組」の一人として逮捕されたあの人物。作家らしく実に軟らかい手であった。似たような軟らかい手はソヴィエトのコスイギン首相のそれだった。

街を歩いてみたが、市民にとってみれば戦後はじめてみるにっくき日本人である。道端に並び、鋭い目で私を睨みつける。怖くなってきてホテルに早々、逃げ帰った。

国慶節の前日に帰国した。羽田に帰着して分かったが、別れ際、周恩来は田中首相に「天皇陛下によろしく」といったという。そんなこともあってか、日本では日中友好ガブームとなりつづいた。わたしは苦々しく耳目をふさいでいた。まさか6年後、こんどは外相秘書官として訪中することになるとは夢にも思わなかった。文中敬称略(再掲)

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