2016年01月07日

◆挨拶の言葉の中に日本がある

加瀬 英明



日本語のなかに、外国語にひとことで訳せない言葉が、沢山ある。

私は英語屋だ。海外と折衝することによって、糊口(ここう)を凌いできた。

外国語にならない日本語が多いと思うたびに、日本人として生まれてよかったと、深く満足する。

箸をとって食事をはじめる時に「いただきます」というが、中国語、韓国語、英語などのヨーロッパ諸語に、このような表現がない。

英語であれば食卓を囲んでから、主なる神に感謝する、短い祈祷文を唱えたものだ。

いまでは、多くの英語国民の信仰心が薄くなったが、ほかにきまった言葉がないので、フランス語を借りて「ボナペティ」(よい食欲を)という。 

お隣の韓国では「チャルモッケスムニダ」(これからよく食べます)、「チャルモゴスムニダ」(よく食べました)だし、中国語では「開始吃飯(クアイスツーファン)」(これから食べます)、満腹になったら「好吃飯了(ハオツーファンラ)」(よく食べました)という。

 天地の万象に感謝

私たちが「いただきます」「御馳走さま」という時には、天地(あめつち)の万象に感謝する。だから、だされた食事を残してはならない。

心や、和も、英語にない。親しい友人のヘンリー・ストークス氏にたずねたところ、文面で回答をくれた。『ニューヨーク・タイムズ』や、『ロンドン・タイムズ』などの東京支局長を歴任したジャーナリストだ。滞日50年になる。

「『こころ』を、英語でどのように訳したらよいか。1語で、とうてい訳せない。そういってしまうと、『欧米人には「こころ」がないのだ』といわれると癪なので、ずっと考えたが、思い当たらない。

『こころ』の言葉を英語で求めると 『こころ』とまったく同じ英語はないが、『こころ』のような意味で、『ハート』や『マインド』を使っている。辞書で調べると、『ハート』や
『マインド』には、数多くの意味がある。

『マインド』は思考に近い。頭で考える範疇で、そこから『アイディア』が生まれてくる。ほかに『マインド』には、『思考、感情、意志などの働きをする』心、『理性を働かせる』知性、記憶や、考えなどの意味がある。

A strong (weak, clear, shallow) mind 『強い(弱い、明晰な、浅薄な)心』という。A sound mind in a sound body.『健全な精神は健全な肉体に宿る』という格言もある。

『ハート』は心臓だ。心配ごとがあると、心臓の鼓動が乱れて、胸が苦しくなる。

My heart leaps up.(心が躍る)という表現もある。My heart is full.というと、『胸がいっぱい』だ。『心』に近いからだ。英語では Whatthe heart thinks, the mouth speaks. (心に思ったことは、口に出る)という諺もある。

 『和』という言葉も外国語にない

人々のあいだの『和』だが、この『和』も世界のなかで、日本にしかない。

この『和』という言葉も、ひと言で外国諸語に訳することができない。中国にも、インドにも、どこにもない。

英語なら、きっと『ハーモニーharmony』――音や、行為、考え、感情な どの調和、一致――が近いと、思われるだろう。

だが、『ハーモニー』は人々が音や、考えや、行動を調和させるか、一致させようと思いたって、参加している人々がそのように決めた結果として、もたらされるものだ。

 『和』は泉の如く湧き出ずる言葉

だが、日本人にとっての『和』は、つねに日本人のこころのなかにあって、心からごく自然に涌きでるものなのだ」

私が所蔵している、全20巻の『日本国語大辞典』(小学館)によっ て、「こころ」が頭についた言葉をひくと、「心相(こころあい)」から始まって、
「心有(こころある)」「心合(こころあ)わせ」「心意気(こころいき)」「心一杯(こころいっぱい)」「心入(こころい)り」「心得(こころえ)」「心覚(こころおぼ)え」「心堅(こころかたし)」「心掛(こころが)け」「心構(こころがま)え」「心配(こころくば)り」「心化粧(こころげしょう)」「様(こころざま)」「心魂(こころだま)」「心盡(こころづく)し」など、400近い言葉がこれでもか、これでもか、というように でてくる。

 日本人は、心の民なのだ。

ちなみに三省堂の『最新コンサイス英和辞典』で、heartをひくと、heartache(心痛)、heartbeat(心臓の鼓動)から、heartwood(材木の心材)まで、僅か26の熟語しか載っていない。英語をはじめとするヨーロッパ諸語では、「心」は動物の心臓に近いのだ。

世界諸語のなかで、「お猫さん」「お猿さん」「トンボさん」「お寺さん」「新聞屋さん」「飲み屋さん」「御馳走様」「世間様」というように、あらゆるものに「さん」「様」の敬称をつけるのは、日本だけである。人間様だといって、威張ることがない。

 万物は全て神様

私はよく祖母から、「そんなことをしたら、世間様に顔向けできません」「世間様に感謝しなさい」と、たしなめられたものだった。

世間が神になっているのは、日本だけだ。和の心から、発するものである。和が神なのだ。

私は地方を訪れるたびに、駅の構内に駅弁が並んでいるのに、見とれてしまう。仙台駅の「炭焼牛タン弁当」、横川駅の釜に入った「峠の釜めし」、鎌倉駅の「かまくら旬彩弁当」‥‥日本中の主要な駅の数だけある。

 駅弁の数々は日本の心の風景である

世界の2大美術館といえば、ロシアのサンクトペテルブルグのエルミ タージュと、パリのルーブル美術館が有名だが、駅弁は足を停めて、目で 堪能するだけで、エルミタージュや、ルーブルを訪れるのと、同じ価値がある。

盛り付けが美しい。幕末から明治にかけて、ヨーロッパの人々がはじめて日本の浮世絵に出会った時と、同じような衝撃を受ける。

日本は世界のなかで、美的感覚がもっとも突出した文化だ。これほどまで、美にこだわる国民は他にない。

日本人が寡黙なのは、何ごとにつけ、心を大切にするからである。

心が美しいことや、ものを、求める。私たちが論理を疎(うと)んじて、理屈を嫌ってきたのは、美は言葉で説明すべきでないからだ。

私たちは中国人、韓国人や西洋人のように、饒舌に理屈を用いて、 何が正しく、何が悪だときめつけることをせずに、何ごとについても、美 しいか、清くないかということを、尺度とする。言葉は少ないほうがよい。言葉は邪魔になる。

 言葉は主張と弁解により生きる

私は言葉に備わっている最大の機能は自己(エゴ)の主張と、弁解することにあると思う。日本人は和を大切にするから、言葉を信用しない。

言葉は言い争って、相手を負かす道具である。

いま、中東を舞台として、イスラム教の2大宗派であるスンニー派と、シーア派が殺し合いに明け暮れているが、このあいだまでキリスト教が旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)に分かれて、ヨーロッパを荒廃させた宗教戦争を再演している。

私たちには、キリスト教や、イスラム教や、その分派である共産主義は、論理を振り翳して諍(いさか)うからなじまない。言葉を乱用すると、心が和まない。

私たちの先人が、世界に類(たぐい)がない寡黙な文化を培ってきたのは、素晴しいことだ。

古来から、日本では言挙(ことあげ)する――声を張りあげて強調していうことを、嫌ってきた。

 和を大切にしてこそ存在がある

私たちは和を大切にして、譲り合って生きてきた。いがみあうのは醜く、美しくない。

日本には外国であれば、あり得ない戒めが多いが、「負けるが勝ち」という言葉も、日本にしかない。外国人にいくら説明してみても、怪訝な顔をして、理解してもらえない。日本の外の世界では、一度負けてしまったら、再び立ち上ることができない。

だから、河野官房長官談話のように、心にないのに詫びたら、外国では通用しない。

日本は「美(うま)し国(くに)そ あきづ島大和の国は」(万葉集、あきつは蜻蛉(とんぼ))というように、諍(いさか)うことを嫌う、美しい心が宿る国なのだ。
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