2016年01月19日

◆続々「友とのメール」そのB

 
浅野 勝人(安保政策研究会理事長)


<極似 = 頼朝 と 太宗 (唐2代皇帝)>

吉川英明さん、文豪・吉川英治が父親でなければ書けない生き証人のコメントを有難うございました。まことに貴重なメールをいただきました。

義経と泣きの涙で別れ、都に残った静(しずか)御前(ごぜ)(義経の側室)は、頼朝の命で身柄を鎌倉に送られます。かの女は義経の子を身籠っていました。静を預かった安達新三郎は、「女子なれば、構いないが、出生の子が男なれば、処分を要する」という頼朝の底意を知っています。

「・・・あわれ、女子であれよ。産まれるお子が、女子でさえあれば」と安達は人知れず、祈っていた。

― だが、月満ちて、生まれた子は、男であった。
やがて、頼朝の内示があった。
「― 反逆人義経の胤(たね)、男子とあっては、将来の禍(か)因(いん)。芽のうちに摘むを可(よし)とする。襁褓(きょうほう)(むつき)にくるんで、由比ヶ浜に投げ捨てよとの御諚(ごじょう)である」と厳達された。

「こよいの、うちに」
と、事も急な、厳命なのだ。(19巻、216頁)

家の子郎党が櫓を漕ぐ小舟に乗った安達新三郎は、重石(おもし)を海に投げ捨てて、「重石をつけ、沖に沈め参らせた」と検視の武者たちを誤魔化して、赤子を助けます。

そして、浜辺で自害しようとする静を止めて、「これだけは、天地にちかって、たれにも告げまいとしていた一事を、かれは、静にだけもらした」

まもなく、かの女は、この砂丘から、姿を消していた。(238頁)

作者は、その一部始終を、旅の途中、近くで野宿していた西行法師に見届けさせます。

「・・・げにも、こよいのお立場は、生涯の御難儀でもありましたろうに、ようありがたい御処置をとられたものかなと、あの木陰にて、伏し拝まれていたことでございました。−さきに、ここを立ち退いた静御前が、再生の光に会うたのはいうまでもありますまい。

いつまで続く来世のやみかと嘆かれていたわたくしなども、ああまだ世は廃(すた)りきったわけではない。おん許(もと)のような御仁もおられると、人事(ひとごと)ならず、うれしくて、お礼を申しあげずにはおられませぬ」

吉川英治は、好きな歌を詠みながら流浪の旅を続ける西行法師を久々に登場させて、主君の命に背いて義経の胤を助けた安達新三郎清隆を「一場(いちじょう)の浄土」と称賛させます。

李(り)淵(えん)は、文武に優れた3人の息子の力添えで唐王朝を建国して、初代皇帝「高祖」となります。ところが、建国早々の王朝は、皇太子の李(り)建(けん)成(せい)派と次男の李(り)世(せい)民(みん)派に分かれて、激しい勢力争いが起こります。人望の厚い皇太子は、帝位を継ぐことを約束されていましたから、李世民は兄を亡き者にしない限り帝位を奪うことができません。

李世民はクーデターを決意します。参内する兄・李建成と弟・李(り)元吉(げんきち)を待ち伏せして、だまし討ちにします。李世民は兄と弟を殺したばかりではありません。兄と弟には、それぞれ5人の子がいましたが、1人残らず殺してしまいました。中国史で知られる「玄武門の変」(626年6月)です。

李世民は、父親を退位させて、唐王朝第2代皇帝に即位して「太宗」と名乗り、元号を貞(じょう)観(がん)元年と改めます。

ところが、皇帝となった太宗は、公平な人材の登用と質実な政治姿勢を貫き、果敢な決断力を駆使して善政を施し、唐289年の礎を確立します。中国では、在位23年に及んだ「貞観の治」は理想的な時代と評価されており、太宗は名君の一人に数えられています。

後に、歴史家呉(ご)兢(きょう)が太宗の政治理念をかいた「貞観政要」は、古今を通じた名著です。(詳細:浅野勝人著「北京大講義録 日中反目の連鎖を断とう」<NHK出版> 第7章:草創と守文と孰(いず)れが難き)
ただ、太宗が中国で“いまいち人気がない”のは、兄弟殺しよりも、比類稀な美女だった弟・元吉の妻だけ助命して、自分の妃にした「弟の女房簒奪者」が原因のようです。

平清盛と常盤御前のような例は、洋の東西を問わず、間々あるのでしょうか。

頼朝は、あの時、13才の己が命を助けた清盛を反面教師として冷徹に生き抜きますが、同時に太宗の生き様を学んだのではないか。頼朝は確実に「貞観政要」を読んでいます。唐王朝が長期政権を維持した理念を鎌倉政権140年の教訓にしたにちがいありません。

頼朝が、なぜ「貞観政要」を愛読していたと確信するかは、女房の北条政子が菅原為長に命じて、漢文の原典を日本語に翻訳させて読んでいるからです。夫が強い影響を受けている著書を自分もマスターしたいと思ったからにちがいありません。頼朝があっけなく逝ったあと、尼将軍として政権を維持し続けただけのことはある女傑です。

政治家、頼朝と太宗は似ていすぎます。

続々「友とのメール」(おわり:2016/1月18日、元内閣官房副長官)


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