2016年01月22日

◆木津川だより 上津遺跡@

白井 繁夫



奈良時代の都(平城京)の外港(泉津)の一角に在る「上津遺跡(こうづいせき):木津川市木津宮の裏」は昭和51年(1976)3月、宅地開発に伴う事前の発掘調査時、大量の奈良時代から平安時代の遺物や遺構が発見され、以後1980年まで4次に亘る発掘調査が国や京都府の支援を得て実施されました。

木津川沿いは古代より風水害に苦しめられた地域のため、当地の古い史料等はほとんど現存せず、奈良の東大寺や興福寺等に残る文献.史料等が当地の歴史の史料として活用されてきました。ところで、近世に入り判明している大洪水の被害記録は江戸時代だけで35回以上あり、まさに7年に1回の割合で発生したことになります。

上津遺跡は木津川左岸(南側)の御霊神社を中心とした東西の隣接地(田畑含)、約2万平方メートルの地域に位置しており、『京都府遺跡地図』(昭和47年)には遺跡散布地として登録されていました。

しかしながら、昔は木津川の自然堤防の河原でもあり、木津川に直面する氾濫原とも思われていました。

だからこの地域から貴重な土師器.須惠器、奈良時代の瓦塼などが多種大量に出土したことに驚きました。その後4次に亘って昭和55年11月まで発掘調査を実施した結果、全国的にも珍しい三彩陶器や古銭貨(和同開珎など)、官人の持物や海辺で無いのに製塩用土器、建築物としては掘立柱建物跡などの遺構も発掘されました。

これらの出土品や遺構跡から国の「官衙」(官庁施設)や諸大寺院の木屋所跡などが想定できる貴重な遺跡が地下に眠っているのを発見した画期的な調査となりました。

出土品や遺構については後段で追々としますが、その前に少し余談です。

私は四国のさぬき市出身です、当地へ来て約40年経ちました。しかし、現在の木津川の姿から、最初に泉津(東西2.6kmに亘る古代木津の港)が平城京の外港でした。といきなり云われた時、私は想像することが困難でした。

そこで少々横道にそれますが木津川に絡む木津(泉津)と大和(藤原京.平城京)との繋がりに触れてみようと思います。

朝鮮半島の白村江(はくすきえ)の戦い(663年:天智2年)で倭国.百済遺民連合軍が唐.新羅連合軍に敗れた結果、倭国は大陸からの侵攻に備える防衛線の構築を急ぎ、北九州や瀬戸内に砦(山城)を築き防衛前線を固め、そのほかの諸方策の一つとして、天智天皇は都を近江に遷都しました。

このことから木津は、大和の飛鳥、難波、近江との往来が多くなり、木津川、宇治川、淀川と繋がる、水上交通や陸上幹線道:山背道(やましろみち):大和―木津―宇治―山科―近江の結接点となり、泉津(木津)が水陸の交通の要衝としての重要度を増しました。

続いて、古代最大の戦乱と云われる壬申の乱(672年)の時、近江朝の大津皇子(天智天皇の子)と大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)の両軍が、木津川市(山城)と奈良市(大和)の国境(乃良山:ならやま)の陣の攻防戦、その後、大海人軍が反撃して泉津を渡り山崎へ進軍し淀川北岸まで制圧しました。

戦勝した天武天皇は、大和飛鳥へ遷都し、淨御原(きよみがはら)律令を編纂して新しい律令国家を目指し、藤原京建設を企画しました。天皇の遺志を受け継いだ妻の持統天皇が唐の都を参考にした都城建設を着工(690年)し、その実現に邁進しました。

藤原京造営用の膨大な木材は近江の田上山(たなかみやま:大津市大神山)から瀬田川→宇治川→木津川と筏に組んで運び泉津で陸揚げして飛鳥に向かいました。

木津の港は飛鳥へ陸送するための仕分け人や労務者、資材や人夫を管理する役人で大変活況を呈するようになりました。

710(和銅3)年に元明天皇が藤原京(奈良盆地の南部)から平城京(奈良盆地の北端)へ遷都したことは、木津の南に連なる奈良山丘陵の南側に都が移動して来た事なのです。

平城遷都の影響は木津地域の歴史的環境を一変させる変化をもたらせました。

従来の木津は奈良盆地南部の都(飛鳥地方)と山背、近江、日本海沿岸地との交通上の要衝であり、木津川の水運を利用する重量物や大型(木材など)貨物の取扱が主力でした。

平城遷都の影響は
@都の水運の玄関港となり、律令制支配の確立と相乗効果を発揮して、全国から集まる租.庸.調に基づく租税物資や都城建設資材を取り扱う港になりました。

A陸上交通の起点が奈良盆地の南部から北部(平城京)に移り、都を中心とする幹線道路網が整備され、東山道や北陸道は泉津がその渡河点になり、和銅4年には岡田駅など諸駅が幹線道に設置されました。(泉津と平城京間は3本の官道:上津.中津.下津道)
  
B全国各地からの献上品の集配や都の建設に携わる人々の集來、国の官衙、木屋所(寺院含)、律令制度に基づく郡衙などの諸施設も建ち並び大いに繁栄がもたらされました。

C元明天皇が和銅元年岡田離宮(木津川市加茂)へ初めて行幸され、以後度々行幸されその節に孫(後の聖武天皇)も同伴されました。(風光明媚な泉津地域は万葉集にも記載あり。)聖武天皇もその影響か神亀2年(725)以後3回行幸されたことが、後の恭仁京(くにきょう:木津川市)への遷都に影響を与えたとも云われています。

上津遺跡は御霊神社境内を中心に東西2町(約2万平方メートル)を越える敷地を占め、膨大な量の土器類や瓦塼類、貴重な彩釉陶器や金具など、また、皇朝十二銭(和同開珎等)の出土品から、奈良時代の国の官衙跡と思われます。

上津遺跡の4次に亘る発掘調査での出土品や古代遺構の状況については、次回につづきます。

参考資料:
木津町史  本文篇  木津町   
木津町埋蔵文化財調査報告書 第1集(1977)〜 第4集(1981) 木津町教育委員会
                          
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