2016年01月24日

◆チベットの悲劇、許し難い中国の蛮行

櫻井よしこ



1月の連休中に、3年9か月振りに日本を訪問したチベット亡命政府の首相、ロブサン・センゲ氏にお会いした。米国ハーバード大学で上級研究員の地位にあった氏は、2011年8月にチベット人の自由選挙によって首相に選ばれ、亡命政府のあるインド北部のダラムサラに戻った。ダライ・ラマ法王14世から政治指導者の地位を受けついだ氏は、今年8月、5年間の第1期を終え、第2期を目指す。
 
妻のケサン・ヤンドンさんも1人娘のメンダ・リナさんも昨年2月、ハーバード大学のあるボストンからダラムサラに移り住んだ。メンダさんはいま8歳、完全な英語圏からチベット語圏へ、西欧近代社会から東洋の簡素かつ自然の摂理に多くを委ねる社会へと移り住んだ。幼い淑女は両方の言葉で日本の童話を語ってくれるなど、健気かつ利発だった。
 
センゲ氏は家族と共に「チベット人として生き、チベット人として死ぬのが願い」だと語る。これから長い間、チベット人としての闘いが続くが、氏は最も困難な課題に、誰よりも率先して取り組む人間でありたいと、笑みを浮かべながら語った。
 
1月11日、千葉工業大学とシンクタンク「国家基本問題研究所」が共催したシンポジウムで、センゲ氏は基調講演を行った。氏は講演で、学生たちに日本の平和な現状からは想像もつかないチベットの厳しい現実を伝えた。内容が自ずと中国のチベット政策批判になったのは、チベットの歴史を見れば当然であろう。
 
中国は、台湾などと共にチベットを核心的利益と位置づけ、独立は決して許さないと主張する。センゲ首相は中国の主張を以下の5つの論点に絞った。➀チベットは歴史を通じて中国領土の一部だった、➁中国がチベットを平和的に解放した、➂チベット人は現在幸福で満足している、➃チベット人はダライ・ラマ法王を嫌っており、法王の帰国を歓迎しない、➄ロブサン・センゲ首相のことは誰も知らないし、彼は悪魔である。この中国の主張は正しいのか。

法王殺害を意図
 
➀についてセンゲ首相は、821年の唐との戦いでチベットが連戦連勝し、唐と結んだ平和条約が石碑に刻まれている事実を指摘した。

「チベットの偉大な王の一人、第40代のティ・ラルパチェン王が唐と結んだ平和条約は石碑に刻まれ、長安の都の宮殿正門の前、チベット・ラサのジョカン大聖殿正門の正面、ググメル山のチベットと中国の分水嶺の3か所に建てられました。
 
碑には、チベットも唐も『現在の国境を尊重する』と書かれています。国境の東方は偉大なる中国、西方は偉大なるチベットの領土であると明記されています。碑は、チベットが中国の一部ではなかったことを示す多くの史料のひとつにすぎません」
 
➁に関して、中国はチベット寺院の95%、6000以上の寺を焼き、破壊し、大多数の僧侶や尼僧を殺害したとして、センゲ首相は中国の侵入が「平和的解放」とは程遠かったことを説明した。事実、中国は僧だけでなく、ダライ・ラマ法王殺害を主目的とした凄まじい殺戮作戦を実施した。
 
1949年に中華人民共和国を建国するや否や、毛沢東らがチベットを侵攻したのは周知のとおりだ。チベット人を道路建設に駆り立て、道路が完成すると無数の武装した漢民族の兵士をトラックで運び、チベット全土に駐屯させた。59年2月、彼らは人民解放軍の駐留地で開催する観劇に法王を招いた。「護衛なしで来るように」という条件つきの招待だった。
 
チベット人は皆、法王が中国に拉致され危害を加えられると心配し、法王の住居だったノルブリンカ宮殿を取り巻いた。観劇の誘いに応じないよう法王に訴え、中国人は中国に帰れと叫び、幾重もの人垣で法王を守ろうとしたのが3月10日である。
 
続々と集結する中国軍との高まる緊張の中、法王は17日夜、宮殿を脱出しインド国境近くのロカに逃れた。そうとは知らない人民解放軍は19日午後、ノルブリンカ宮殿に一斉砲撃を開始した。集中砲火はなんと、41時間も続いたと伝えられる。宮殿内の僧、尼僧、一般のチベット人は殆ど全員殺害された。宮殿も破壊された。中国は明らかに、法王殺害を意図していたのである。
 
インド国境近くに逃れていた法王がインド政府に亡命を申請したのは同月29日だった。これが実際に起きたことだ。「チベット解放」は平和的に行われたという中国の主張は大嘘なのである。
 
以下、➂が事実なら、なぜいまもチベットの若者たちの焼身自殺はやまないのか。➃が事実なら、油をかぶってわが身に火を放ち苦悶の内に死ぬ人々の遺書に、なぜ、法王への熱烈な信仰心と帰国を待ち望む声が書き残されているのか。➄が事実なら、チベット人600万人全員に尋ねるがよい。中国共産党支配の下に居続けたいか、自由選挙でセンゲ首相を選びたいかと。チベット人は必ず中国共産党を忌避し、センゲ氏を選ぶだろう。

中国を恐れない
 
いま、国際社会は強大化する中国の脅威に直面しているが、センゲ首相はチベット人がどのように中国に対処しているか、中国がどのようにチベットを取り扱ってきたかを知ることが、中国問題に正しく向き合う知恵を授けてくれると強調する。
 
チベット人は600万人、中国総人口の0・5%にすぎないが、センゲ首相は「チベット人は漢民族の中国を恐れてはいない」と繰り返す。

「私たちの全ては真実に基づいています。私たちは嘘とも捏造とも無縁です。時代の風は私たちを後押ししてくれています」
 
重要なのは、真実に共感する国際社会の輪を広げ、中国にそれを認識させることである。かつてはその役割を担っていた米国が国際社会で引きこもり状態に陥りつつある。米国に替わって真実の輪を広げる役割を担えるのが、実は日本である。
 
アジア諸国の中でダライ・ラマ法王の訪問を受け入れているのはモンゴル、台湾以外では日本だけである。しかも法王来日の頻度は他国と比較にならない程高い。他のアジア諸国は中国の報復を恐れて、受け入れたくても決断できないのである。そうした中、法王の来日のみならず、センゲ首相の来日も、その折々に歓迎してきた日本国の在り方に、日本人は誇りを抱いてもよいだろう。
 
今回もセンゲ首相は帰国する前日、国会施設内で自民党議員らと会談する。政治家も民間人も、チベットをはじめとする少数民族問題や人権問題に関して、目の前に存在する悲劇や問題から目を背けないことが大事である。そのためにも、首相来日の度に、或いは法王来日の度に、与野党共に真摯な対話を重ねるのがよい。日本にはよき価値観を世界に広げる責任と力があるのである。

『週刊新潮』 2016年1月21日号 日本ルネッサンス 第688回
                (採録:松本市 久保田 康文)


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