2016年02月02日

◆独立不羈の男・河合栄治郎

湯浅 博



農商務官僚を辞任した河合栄治郎は、一転してジャーナリズムへの道に踏み出そうとしていた。著名な在野ジャーナリストには、長谷川如是閑や馬場恒吾がいた。一方、言論活動をする大学人には、一高の恩師で東京帝大教授の新渡戸稲造や、栄治郎と同じ小野塚喜平次門下の先輩、吉野作造もいる。

とくに吉野は、3年前の大正5(1916)年1月号の『中央公論』に発表した論文「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」が、大正デモクラシーを代表する評論として名声を博した。現在の平成28年1月が「デモクラシー論100年」ということになる。

吉野と栄治郎の師である小野塚は、欧州の近代化を分析してデモクラシーを「衆民主義」として紹介し、弟子の吉野は帝国憲法下におけるデモクラシーの可能性を「民本主義」と意訳した。

小野塚から後継者と目された栄治郎が、彼らの流れをくむ「自由主義」の言論人になることは自然の流れであった。

民本主義を掲げた吉野の「憲政の本義」は、大正11年の日本共産党創設に参画した山川均らに、帝国憲法の枠内に留まり国民主権にまで高めていないとして批判される。

しかし、明治の帝国憲法には臣民が改正を発議する権利がない以上、天皇主権を国民主権に移行させるには、左派が夢みる暴力革命しかなかった(苅部直論文『中央公論』2016年1月号)。

帝国憲法を前提としているからこそ、吉野は民主主義でなく民本主義としたのである。

栄治郎は農商務省時代を通じて雑誌『改造』はじめ、国民、東京朝日、読売など新聞各紙に執筆した珍しい存在だった。吉野を大学人の講壇ジャーナリストと呼ぶなら、栄治郎は官僚ジャーナリストであった。そこへ降ってわいた官僚辞任だから、世間の耳目をそばだてさせた。

 ■新聞記者か学界か

栄治郎が心を動かしたのは「大正日日新聞」の好条件であった。この新聞は大阪朝日の元主筆、鳥居素川が創刊しており、栄治郎のために英国行きの船室予約キップまで用意して入社を誘った。

栄治郎が英国への留学を熱望していることを察知した鳥居が、巧みに誘い込んだものであろう。

鳥居の提示した条件には、付加価値がついていた。帰朝後も栄治郎が大学などに職を求めたいならそれもよし、ただ、新聞雑誌の執筆に際しては大正日日を優先するという申し分のない提案だった。

先輩の吉野作造や友人の森戸辰男はすぐに賛成した(「教壇生活二十年」『全集第二十巻』)。

ジャーナリズムの世界は、栄治郎が徳富蘇峰に傾倒していた幼少の頃よりの関心領域であった。ところが、思いもかけないところから反対の声が上がった。恩師であり、仲人でもある矢作栄蔵博士であった。

栄治郎の大正日日入りを伝え聞いた矢作は、驚いて栄治郎を訪ねた。矢作は栄治郎が新聞で政府を攻撃したことから、これ以上、急進的になることを心配したのだ。むしろ大学に入ってじっくり研究し、自然な成長を図るべきであると説いた。

「それがあなたの母上の望みであろうし、また外国にいる小野塚先生の志
でもあろう」

だが、栄治郎は即答しない。それをみた矢作も頑として席を立たない。すると、意外にも矢作は、涙声になって翻意を迫った。そこまで考えてくれる矢作に、栄治郎はこうべを垂れざるを得なかった。

「私の進退はお任せします」(「教壇生活二十年」『全集第二十巻』)。ついに、ジャーナリズムの世界に踏み込むことを断念したのである。

これより先、矢作と小野塚は栄治郎のため、ひそかに再就職の道を探っていた。このころ、東京帝大法科大学経済学科は分離独立して、大正8年4月に経済学部になっていた。経済学部長は栄治郎の岳父、金井延(のぶる)であり、金井はかえって栄治郎の帝大入りに積極介入することがはばかられた。

 ■初の赤化教授事件へ

当時の大学は広く人材を外に求めていた。大学卒業後に官庁や民間企業に入り、のちに学界へ転身することは珍しくなかった。経済学部の大内兵衛(大蔵省)、江原萬里(住友総本店)、法学部の田中耕太郎(内務省)、南原繁(内務省)、高木八尺(大蔵省)など、いずれも社会人の転身組である。

矢作や小野塚の売り込みもあり、栄治郎を経済学部の助教授に推薦する案件は、矢内原忠雄とともに教授会ではかられ、2人の任命が可決された。大学で栄治郎が希望する講座「社会政策」は、森戸辰男助教授が担当していた。その森戸が栄治郎を訪ねて、助教授の就任を依頼した。

森戸は将来は交代で講義することもできるし、「この際、ぜひとも入ってくれ」と勧めた。栄治郎は森戸の好意が、身に染みてうれしかった。次いで森戸は、思いもかけないことを口にした。

「河合君、実はわたしの地位は危なくなっているんです。君が傍(そば)にいて呉(く)れると、去るにも心強いから」

森戸の告白は真に迫っていた。栄治郎には遠い未来の話のように思えたが、事件はそのわずか1カ月後にやってきた。森戸のいう「自分の地位が危ない」とは、決して杞憂(きゆう)でも先の話でもなかったのだ(「教壇生活二十年」『全集第二十巻』)。

森戸は大正9年1月、経済学部の機関誌『経済学研究』の創刊号に書いた論文「クロポトキンの社会思想の研究」で、危険思想と名指しされた。揚げ句に大学から休職処分を受け、そのまま電撃的に起訴された。

森戸が機関誌で紹介したクロポトキンの無政府思想が、「公共の秩序を乱した」と見なされ、執筆者として禁錮3月、罰金70円の刑に処せられた。同時に、機関誌の編集発行人である大内兵衛助教授も朝憲紊乱(ちょうけんぶんらん)罪で起訴される。大内もまた禁錮1月、罰金20円を科せられて同10月に失官した。

これが最初の赤化教授事件であり、世に言う「森戸事件」であった。=敬称略(産経新聞特別記者)
               ◇
■独立不羈(どくりつふき) 束縛や制約を受けずに自分の意思に従って自由に行動する。「羈」は馬のたづなの意味。

産経ニュース【 全体主義と闘った思想家】206.1.31
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