2016年02月29日

◆木津川だより 上津遺跡 A

白井 繁夫



「木津川」の左岸に鎮座する御霊神社を中心に東西約2万平方メートルの地域に広がる「上津遺跡(こうづいせき):木津町宮の裏」は、@回目に綴ったごとく、昭和51(1976)年の第1次発掘調査から昭和55年(1980)の第4次に亘る調査によって出土した、遺物(土器.瓦塼)や遺構等から、広く学会にも紹介されて上津遺跡が知られるようになりました。

しかし、この遺跡が初めて学会に紹介されたのは、先の大戦前の昭和13(1938)年に、
田中重久氏により、「伝誓願寺跡」と名付けられた時からです。『木津町史 史料篇 T』

田中氏は各地の遺跡や寺院跡を仔細に踏査し、発掘調査による出土古瓦等を研究した結果から誓願寺跡と推定したのです。

奈良朝の瓦(相楽神社蔵)が出土した現況、寺址として絶好の地形(川の水面より4m高い自然堤防の氾濫原)、出土瓦の文様は紫香宮や恭仁宮、即ち国分寺に等しいものがあり、国分尼寺は国分僧寺の付近にあるからです。(誓願寺は奈良時代の国分尼寺でした。)

当時の田中氏の瓦は散逸していますが、昭和51年(第1次)の出土瓦は恭仁宮と同笵瓦が出土し、当時の学界の状況から見れば、寺院跡としての判断は当然だったと思われます。

その後、高橋美久ニ氏のこの遺跡に対する新たな注目すべき視点です。

この遺跡付近の通称「上津:こうづ」が国府津(こくふつ→こうづ)に通じることより、津の遺跡即ち、「上津遺跡」と命名されたのです。

天武天皇が企画した唐の律令制度を取入れた本格的な都城「藤原京」から、和銅3(710)年に元明天皇が大和盆地の北端に新しい都城「平城京」を造営して遷都したことにより、奈良山丘陵の北側に位置する「泉津」は都の「外港」として重要な地位を得ました。

しかも、天平12(740)年に聖武天皇が恭仁京(くにきょう:木津川市)に遷都したことにより、都の造営事業に関係して、泉津の一角を占める上津遺跡には国の官衙や倉庫などの施設もできたと想定できますが、そこが木津川の自然堤防の氾濫原のため、千数百年間の長き年月人知れずに地中に眠ったままの状態で発見された遺跡なのです。

上津遺跡の発掘調査出土品の概要
★第1次調査(昭和51年3月 約440平方メートル)

遺物は弥生時代から近世までですが、奈良時代が最も多く出土しました。

弥生式土器(高杯の脚部長短2種の破片)、奈良時代の須惠器.土師器.瓦類.灰釉陶器.陶磁器.土馬など、出土品は平安時代のも少し出ましたが、奈良時代の遺物が中心であり、奈良時代の遺跡としての存在が実証されたのです。

特に軒丸瓦の文様が十七葉細弁蓮華文の出土は、恭仁宮(山背国分寺創建瓦)と同笵(平城宮V期)瓦です。(誓願寺跡:国分尼寺跡と推測した当時の田中氏の説、理解できます。)

★第2次調査(昭和52年2月〜4月、5月末〜7月末 約3010平方メートル)

2次調査は、上津遺跡の中心部(御霊神社)に隣接する北側の地域です。東西に長く伸びる溝など多数の遺構などあり、約3千平方メートルの期待を込めた発掘調査の結果は奈良時代の土器類や瓦塼など夥しい量の遺物や遺構が発見され、想定外の成果が得られました。

土器の中の最高級品と云われた鉛釉陶器の超珍品:奈良三彩陶器や何棟か建ち並んだ掘立柱建物跡など後述しますが、奈良時代の「泉津」(木津の港)に造営された官衙施設と推定される「上津遺跡」の評価を得るに足る多種大量の遺物が出土したのです。

★第3次調査(昭和54年10月3日〜翌55年2月末 約1810平方メートル)

3次調査は御霊神社の北西側、2次調査地の西側隣接地域です。前回調査と同様、調査地全域で遺物や遺構が多種大量に検出されましたが、遺跡の西限を確定できる塀や溝など遺跡の範囲を決めるものが検出できませんでした。遺跡の範囲はさらに西方に広がりがあるのかJR奈良線があり、遺跡の西の西限は不明です。

この遺跡は方2町(約2万平方メートル)を越える広い敷地を持っていたと思われます。しかし、都が平安京への遷都で、官衙(造宮省.木工寮)の官僚も移動したと思われます。

「奈良時代から平安時代の前葉まで銭司遺跡(木津川市加茂)では皇朝十二銭の和同開珎から隆平永宝(796年初鋳年)を鋳銭していました。

しかし、この遺跡では和同開珎(708年).万年通宝(760).神功開宝(765)の銭貨3種計41枚出土しましたが隆平永宝はまだ発見されていません。」(大寺院の泉木屋所は以後も存続するが、上津遺跡は衰亡したか?)

★第4次調査 昭和55(1980)年11月6日〜21日  約350平方メートル

御霊神社の東側、約350平方メートルと面積が狭いからか、まとまった遺構の検出は有りませんが、2次.3次調査と同様に多彩な遺物が出土しました。この地域も遺跡の主要部の一部分であると想定できます。

4次に亘る発掘調査で判明した遺構や遺物は想像を遥かに超えました。特に遺物は多種多彩であり、種別ごとに説明すると膨大な量の須惠器や土師器など含め長文になりますので、以下出土品名のみを簡略して列挙します。

◆土器 多種大量の須惠器と土師器が出土し、(須惠器が全体の60%で土師器が多い平城宮とは異なる)、その他の土器は小量ですが黒色土器.彩釉陶器.墨書土器.円面硯.転用硯.韓竈.土馬.製塩土器.など(鉛釉陶器:三彩の合子蓋:は陶器では類例がない珍品、金属器の同形態は法隆寺献納品、円面硯.須惠器杯類の転用硯は官人使用、土馬.墨書人面土器.韓竈は祭祀用です。)

◆金属製品 銭貨.帯金具.刀の鞘尻金具.鉄斧.刀子.楔.金銅飾金具.銅製獣脚付容器.海老錠の鍵など(帯金具.鞘尻金具など官僚の佩用具が出土)

◆瓦塼 軒丸瓦.軒平瓦.丸瓦.平瓦.文字瓦.塼ですが、丸瓦と平瓦の出土が最も多い。軒丸瓦  については2次調査出土瓦が中心です。1次調査で恭仁宮(山城国分寺創建瓦)と同笵瓦(平城宮V期瓦)が出土し、第3次では藤原宮式軒丸瓦(平城宮T期瓦)が出土しました。

泉津は奈良時代の都の玄関港として律令制度の確立に基づき全国から物資が集められました。

上津遺跡の官衙は、律令収奪体系の特徴とも取れる出土品:製塩土器は紀伊を中心とする東部瀬戸内地域や北部九州から中.西部瀬戸内地域産、煮沸用土師器は山城型.大和.河内.近江.伊賀.伊勢型等各地、須惠器も群別構成は平城宮のそれと同様の傾向を示しています。

上津遺跡は平城京の外港「泉津」におかれた「官衙」(官の施設)で最も活況を呈した時期は天平期の740年代と思われます。平城京の造営事業に関する国の出先機関(造宮省.木工寮)が天平12年から短命の都ですが、恭仁京の造営に最大の力を発揮したと思います。

聖武天皇は恭仁京において、国分寺造営の詔、墾田永世私財法を発令、大仏造立の発願等を行いました。しかし、この遺跡は奈良時代末に廃絶されました。その後、9世紀後半代のものが小規模ですが短期間あります。

ただし、泉津に在る南都の大寺院の木屋所や律令制度に基づく郡衙(相楽郡の役所等)はその後も存続しています。(了)      2016.2.28

参考資料:木津町史 本文篇、 史料篇 T、木津町
     木津町埋蔵文化財調査報告書 第1集 〜 第4集 木津町教育委員会 
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