毛馬 一三
江戸時代中期の大阪俳人で画家であった与謝蕪村は、享保元年(1716年)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)で生まれている。ところが、その生誕地が大阪毛馬村だとは、余り周知されていない。
蕪村は、17歳〜20歳頃、生誕地毛馬を飛び出て江戸に下っている。なぜ江戸へ下ったのか。これすら未だはっきりしない。しかも蕪村は出奔以来、極度な望郷は感じながらも、実際は生誕地「毛馬」に一歩も足を踏み入れていない。なぜだろう。
京都丹後与謝から毛馬村の商屋の奉公人として来た母親が、庄屋主と結ばれて蕪村が産まれた。母親が若くして京都丹後の実家に帰郷したため、周囲から私生児扱いの過酷ないじめに遭わされたことや、父の「庄屋家督継承」も出来なかったことから、意を決して毛馬村を飛び出したようだ。
蕪村が飛び出した先が、江戸の日本橋石町「時の鐘」辺に住む俳人早野巴人だった。だが、この超有名な師匠との縁がどうして出来たのか、しかも師事として俳諧を学ぶことが、どうしてできたのか、江戸下りの旅費・生活費はどうやって賄ったのか、等々ミステリーだらけだ。
蕪村は、師の寓居に住まわせて貰い、宰鳥と号している。
<寛保2年(1742年)27歳の時、師が没したあと、下総国結城(茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおか がんとう)のもとに寄寓し、松尾芭蕉に憧れてその足跡を辿り東北地方を周遊した。その際の手記を寛保4年(1744年)に編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で、初めて「蕪村」と号したのである。
その後丹後、讃岐などを歴遊し、42歳の頃京都に居を構えた。 45歳頃に結婚し、一人娘くのを儲けた。島原(嶋原)角屋で句を教えるなど、以後、京都で生涯を過ごした。明和7年(1770年)には、夜半亭二世に推戴されている。
京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で、天明3年12月25日(1784年1月17日)未明68歳の生涯を閉じた。>以上
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さて、蕪村は江戸から帰り、定住していた京都から船で「淀川」を下って、生誕地毛馬村を横目に眺めながら、頻繁に大阪にやって来ている。
京都から淀川を船でやって来て大阪に上ったのは、生誕地毛馬村と少し離れている淀川(現在は大川)下流の源八橋の検問所があった船着き場だった。ここから上がって大阪市内の数多い門人弟子らを訪ねて回り「吟行」を多重に行っている。
また蕪村は、俳人西山宗因のお墓(大阪市北区兎我野町 西福寺)を訪ねたり、蕪村の門下人の武村沙月、吉分大魯(よしわけ・たいろ)のほか、西山宗因の門下の上島 鬼貫(伊丹の人)の処を回るなど、大阪以外のいたる所も巡行している
<特に、吉分大魯は、阿波の出身で、安永2年 (1773)から6年まで大阪「蘆陰舎」に滞在(安永7年、兵庫で没)しており、この「蘆陰舎」に蕪村は足繁く立ち寄っている。逆に大魯をつれて、淀川を船で上り、京都の蕪村門下を代表する高井几董に会わせるなど、京都―大阪往復行脚は活発だったようだ。(大阪市立大学文学部)>
ところで、蕪村の活躍の主舞台は、絵画・俳諧で名を上げた京都だとされている。
それだけではなく蕪村は、上記の通り京都に還って来てから、大阪のいたる所を吟行して回り、大阪俳人として活躍の場としていたのだ。これもあまり知られていない。
船着き場の「源八橋から蕪村生誕地の毛馬まで歩いてみても、30分ほどしかかからない、短い距離に生誕地はあるのだ。それなのに蕪村は、生涯地・毛馬には一歩も足を踏み入れていない。
やはり母の帰郷後も、家人からは私生児のことをやり玉にあげられて過度の苛めに合い、出家まで決意させられた辛い思いで彷徨したこともあったという。大坂生誕地に帰郷すれば「怨念」が脳裏を支配し、これが立ち寄りを阻んだものだろう。それが「信念」だったとしたら、蕪村の辛さは過酷すぎるものだったと思える。
とは云うものの、蕪村の「望郷の念」は、人一倍あったのは間違いない。
自作の「春風馬堤曲」の中で、帰郷する奉公人娘になぞらえて生誕地毛馬への自己の想いを書き綴っている。この「春風馬堤曲」を弟子に送った時、「子供の頃、毛馬堤で遊んだ」と回顧する記述を付して、望郷の気持ちを伝えていることからも、「蕪村の悲痛な心境」が伺える。
蕪村の心の奥底に去来していたのは、「故郷は遠くにありて想うもの」であり、毛馬生誕地に一度も立ち寄らなかった理由が、故郷毛馬での生き様と深く結びつくだけに、蕪村人生の輪郭が、際立って浮かび上がってくる。
筆者が主宰するNPO法人近畿ホーラム21主催の「講座・蕪村顕彰俳句大学」で、大阪市立大学と共同し 今年の2016年に「蕪村生誕300年記念祭行事」をする。
今年の1月23日に大阪蕪村公園の前に奈良時代から在る毛馬町の「淀川神社」に「蕪村銅像」を既に建立し、除幕式の御祭りを行った。
5月1日には「蕪村生誕300年記念行事実行委員会」(市大・村田正博教授)が、都島区役所のとなりに在る「区民センター」で、学者、俳人をまじえた画期的な「蕪村生誕300年記念シンポジューム」を開催する。
蕪村が氏子で生誕地から離れるまで参拝続けた現在の「淀川神社」をはじめ、長期に蕪村顕彰をしている「蕪村通り商店街」と共同事業もする。また地元淀川・大東連合町会や地元NPO法人とも、足並みを揃えていくことにしている。
「蕪村通り商店街」とは、9月11日の第13期の「蕪村顕彰全国俳句大会表彰式の開催したあと、同日近郊の蕪村公園で「踊り」を込めた「お祝いの行事」を計画している。
こんな中で「芭蕉・一茶」の生誕地では、生誕祭を含めた様々な記念事業や「大小各種の博物館」もあり、おおいに賑わいを集めて行っていろ。蕪村は「見送られている」状態。
それだけに、何としてでも今年2016年に「蕪村生誕300年祭」を敢行し、大阪俳人与謝蕪村の名を国内外に広めたいと考えている。
大阪を行脚しながら、生誕地毛馬町に一度も足を踏み入れなかった蕪村を、「蕪村生誕300年祭」の時に、蕪村から「望郷魂」だけでも呼びたいと思っている。「淀川神社の蕪村銅像」建立は、「蕪村魂が還る」と朝日新聞が評価してくれた。今は、銅像の観に来る人がおおくなっているという。
「望郷の念」に浸されていた蕪村の「夢」を実現させることが、筆者の人生最後の願いでもある。(了)