2016年03月17日

◆青春の墓標、一枚の卒業写真

馬場 伯明



ここに1枚の古い写真がある。薄茶色に褪色している。昭和19(1944)年9月22日の東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)の卒業写真である。戦時中のため6ヶ月の繰り上げ卒業となった。写真には全卒業生116人のうち30人しかいない。

小林古径教授(日本画科)や梅原龍三郎教授(油画科)など教師の数の方が多い。鈴懸の葉が繁る東京美術学校本館前で、彼らは学生服姿で整列し戦時下特有の厳しい表情をしている。

じつは、この卒業写真はこの世に1枚しかない。撮影後フィルムが焼失したとされていた。ところが、日本画科の卒業生である私の叔父馬場孟臣(たけおみ・父の弟)が1枚持っていた。写真館の主人からチェックを頼まれた試し焼きの写真である。その直後写真館は全焼したのであった。

日本画科卒業生は3人。最後列の左から4番目の叔父、5番目の大竹武雄氏、7番目の信太金昌氏だけ。加倉井和夫氏(神奈川県)、竹山博二氏、渡辺定夫氏(岐阜県)、桑原喜八郎氏(静岡県・戦死)、それに大山忠作氏(後に文化勲章受章)など他の者は学徒動員のためそこにはいない。
         
叔父は大正10(1921)年3月31日、長崎県南高来郡南串山村(現在の雲仙市南串山町)に生まれ、長崎県(旧制)諫早中学から昭和15年に東京美術学校日本画科へ進んだ。

小林古径(こけい)教授や安田靭彦(ゆきひこ)教授らに師事し、親友の加倉井氏や竹山氏たちとともに、戦争のさなかであったが、ひたすら絵を描き日本画の未来を語り合った。

当時、南串山村の小学校教師であった私の父(馬場賀臣よしおみ)と母(ミスエ)は2人の俸給の中から叔父の学費や生活費を仕送りしていた。

しかし、戦争も激しくなりそれも苦しくなった。父は「美術学校をやめさたい」と叔父の副保証人であった地元選出の馬場元治代議士(のち建設大臣)に美術学校への訪問と叔父の修学状況の問い合わせを依頼した。

結果は意外だった。「孟臣君は抜群の成績であり同期トップだった。後世、代議士の私は忘れられても孟臣君の名前は残るかもしれない。卒業まで仕送りをがんばってほしい」との返事だった。美術学校の学籍簿(写)にある本科4年間の成績(実習)平均90点は稀有のことだという。

戦後の混乱の中、叔父は昭和22(1947)年に帰郷し、翌年旧制長崎中学(現在の長崎東高校)に美術教師として奉職したが、健康を害し、昭和24年11月7日、28歳の若さで死去した。

叔父の50回忌を済ませた4年後の平成5(1993)年春、父は私設美術館「自彊館(じきょうかん・平屋50坪)」を自宅敷地内に建設した。叔父の作品を展示するためである。「孟臣、不憫である」と。若くして逝った弟の生きざまを何らかの形で残してやりたいとの思いからであった。

父母は亡くなり、ときは流れた。自彊館開設21年後の平成26(2014)年12月、姉史子を中心に兄弟姉妹(叔父の甥と姪)の私たち5人が力を合わせ叔父の画集を制作した。「早世の画家 馬場孟臣」である。A4版・全カラー・125頁(非売品)。

発行者である姉は、数少ない公募展の作品や(旧制)諫早中学時代からのスケッチ類も収録し、それに美術学校時代の写真帖の写真や友人の回想記なども加え、叔父の一代記風に編集した。見せることはできなかったが亡父母も草葉の陰で喜んでいると思う。

画集の巻頭にある姉の「六歳の記憶」から抜粋する。

《孟臣叔父は長身であった。前髪が半分額にかかっていた。・・・さっと斜め上を向いて額に垂れた髪を払った/村の小学校の合同スケッチ大会に参加することになった。/革張りの画板を叔父が持たせてくれた。階段(の下)で行ってきますと言った。/この日はいい絵ができた。/次の日の朝叔父はなくなった。お棺に昨日の絵を入れた。画板は形見にもらった。私が6歳8ヵ月のときであった 》。

美術学校の卒業制作が2作品あるのは異例だという。雄大な「山」と静謐の「苔」の2点。だが、現物は行方不明で写真だけが残る。画集の表紙にした「農家の牛(96cm×125cm)」はおだやかな色合いで心温まるような作品である。一方、「横浜外人墓地(126cm×188cm)」は当時の日本画とは思えないような斬新なピンク系の色使いの大作である。

昭和16(1941)年の下志津野外演習の写真には日本画科同期生20人が勢揃いしている。「(戦死された)桑原喜八郎君遺作展」の写真を見るのはつらい。竹山博二氏からの病気見舞いの挿絵入りの手紙や、死去に際しいただいた山本丘人氏(助教授:当時)の追悼の葉書も収録した。

入学は1年先輩だったが叔父と同級生になった信太金昌(しだきんしょう)氏に、平成14(2002)年の創画展の折に私がインタビューし、その内容や表現について了解を得ていた文章6頁分を載せた。

信太氏は創画会の重鎮であったが、美術学校時代の叔父との交遊や当時の学校の状況を、少しも飾らず鮮明にかつ愛情を込めて詳しく話してくださった。その一部を紹介する。

《馬場と2人で横山大観先生の自宅を訪ねた。出征学徒の寄せ書きの国旗を示し、馬場が美校の改革を直訴した/出征する大竹武雄氏を上野駅で見送った。「死んだらだめだ。必ず帰って来い」と叫んだ馬場の声が今も耳に残っている(大竹氏は中国で戦病死。享年21歳)/

卒業制作のために馬場と2人で埼玉県正丸峠や長野県霧ヶ峰へ行った。/馬場は同期では作画の実力がずば抜けていた。年4回のコンクールでは4年間殆ど一席であり、作品は何点も文部省の買い上げとなった 》。

平成26(2014)年12月13日、私は信太氏がおられる埼玉県の老人施設「飯能リハビリ館」を訪問した。叔父の画集を手渡し1時間半、話し込むほどに信太氏の記憶は鮮明になり70年前の若者の顔になっていった。

ところが、平成27(2015)年1月6日、信太氏は肺炎で死去された。生前に叔父の画集をご覧いただくことができよかった。享年94歳。合掌。

画集は長崎県内の図書館や美術館、近隣の公共団体や小中学校、国会図書館、東京藝大図書館などへ寄贈し、係累の者などに配った。

叔父の2歳年上だった私の母は後年早世の叔父を偲び、短歌を詠んだ。

菊の頃逝きし義弟の命日に菊束持ちて墓参果たしぬ義弟(おとうと)の遺せし秋の富士の軸掛けてけふ祥月命日義弟(おとうと)よ今に在(い)まさば世に出でて勝(すぐ)れし絵あまた描きしものを

今、私は深く思う。叔父の無念さを・・・。次は「愛しき日々」(小椋佳作詞・堀内孝雄作曲)。日本TV系時代劇「白虎隊」の主題歌(1986)。

風の流れの激しさに 告げる想いも揺れ惑う
かたくなまでの ひとすじの道
愚か者ものだと笑いますか
もう少し時がゆるやかであったなら
(中略)
いとしき日々のはかなさは
暮れ残る夢青春の影(以下、略)

戦中・戦後の混乱の東京上野の森で、純粋に絵画芸術を求め必死にがんばった一人の若者がいた。その死後66年。手許にある1枚の卒業写真は、あの時代を精一杯駆け抜けた叔父孟臣の青春の墓標である。
(2016/3/15 千葉市在住)


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。