2016年03月26日

◆「親鸞」と「酒井友哉」B

〜生き仏の講話:シリーズ ― 酒井友哉〜 

 
浅野 勝人  (安保政策研究会理事長)



それから、夜中にお水取りに行かなきゃならない。200メートル位離れた井戸まで行くのに、最初の頃は7分位で往復できる。ところが、時間が経つにつれて体力が消耗してきて何十分もかかるようになる。おいしいもん食べて休養して、リズムをつくって、リズムに乗ってやればうまいこといくんだろうけれども、リズムを狂わしちゃって、ただひたすら自分が枯れてくるのを待ちながらやっていくやつだから、どうしようもない。

そんなことやってるうちに、自分の体がまたしんどくなってくる。しんどくなってくると、なんでこんなことになっちゃたんだと、もう一人の自分が出て来ちゃう。そんなに辛いんだったらもう止めちゃって、どうにでもなればいいんじゃないのと思いはじめる。

その頃になると体が貧血状態になってくるのに、その時は貧血状態だなんて気づかないわけですヨ。だから立ち上がると、ふわーと目まいがして、暗くなるような感じがする。自分の体の体重の重心が狂ってるもんだから、踏ん張りがきかなくて、揺れてるわけ。

それがネ。雲の上に乗ってるような感じがするわけ。ふわーふわーと、なんとも言えない綿の上に乗っかってるような感じ。それに吸い込まれるような、何か知らないけれど遠い所からスーと滑空しているような感じがするわけ。それでもってどこまで行くのかな、もし行くとこまでいったらどうなるのかなと思いながらやってるうちに、パッとまた自分に引き戻される。

そのくり返しの中でお経をあげ続けていると、死んじゃうのかなと思えてくる。こんなに辛いんなら死んじゃおうかなと思って、それなりの決心がつくと、今度は行くとこまで行かせてもらおうと腹決めて、そのつもりでお経をあげるようになるんです。

そうするとやっぱりうまいこと出来ててネ。トントントントンと合図の音が聞こえてきて、今まで閉じこもっていたのがふっと自分に戻る。そうだ、お水取りに行かなきゃならないと我に返って、お水取りに行くわけです。

背中に桶をかついでそろそろと下へ出て行くのが夜中の2時頃なんです。10月の比叡山の夜中の2時頃っていうと、もう寒いんですヨ。

それにもかかわらず、その時間になってくると下の方から皆んなが上がってきてくれて、行者の無事を祈ってくれたり、昨日あんなに細くなっていたが、今日はどの位になってんだと思って、私の体を心配して大勢の人が出てきてくれるんです。

その人達がお数珠でお不動さんの真言を唱えてくれる。この音が耳に入って来ると不思議とぴしっとします。「ナンマンダ」って言ったり、「ノウマクサンマンダ」と言ってる声が聞こえてくると、これはがんばらなくちゃいけないな、へたっちゃいけないなと思うのネ。そう思った途端に、もう一人の違った自分がのこのこと出て来て、「ここでもうひと踏ん張りして、男を上げなかったら行者じゃないヨ。」なんて言われちゃう。それじゃ頑張りましょうと思って、ふらふらになってんだけども元気があるような顔をして、お水を取って帰って来る。

お堂へ戻って来て、その勢いで一生懸命お経を唱えているうちに、いつの間にか、また吸い込まれるように滑空状態に入っていく。


結局考えてみたら、死のうか生きようかスレスレなんだよネ。大勢の人のお数珠の力だとか、応援団の真言などの念仏の声聞きながら、みんなの前で無様(ぶざま)な格好は出来ないからがんばりましょう。いい格好しよう。俺はこんなになってもまだ元気があるところを見せなきゃならないって、必死で歩いてる自分がいる。

もう一方、スーと吸い込まれて行っちゃって、全てのことを忘れて、これが本当の桃源郷ならこれでいいじゃないの、死んでもいいよっていうもうひとりの自分がいる。詰まるところ、2人の自分の競り合いになってる。

耐えようか、楽しもうか。死のうか、生きようか、生きようか、死のうかという時になって、ハッと気がづくんだネ。何のために自分は行者になったのかとネ。

もうひとつはここまで誰が育ててくれたのか、比叡山へのこのこやって来て、『行』をさせてもらう、『行』をするんでも何もなくて出来るわけじゃありません。

細かいお金がいっぱいいるんです。草鞋(わらじ)を用意しなきゃならないとか、行者の衣類を作らなければならないとか、細かい目に見えないものがいっぱいある。

応援団の人たちが一人増え、二人増えて、みんなが寄進してくれて、これだけの軍資金があるからがんばって下さいって、『行』をしやすいように仕向けてくれてるわけですからネ。そのお金のおかげでお堂入りの時まで漕ぎつけたのに、お堂入りの最中に自分の都合でこのまま行っちゃったら(死んでしまったら)とんでもないことになる。そうゆう人たちに何をもって報いるべきかということを考えますネ。

そうすると絶対どんなことがあっても、この『行』だけは成し遂げなければならない。お堂から出て行った後で、この人たちのために力を十分と発揮しなければいけない。自分がここまでくる間には、身内ばかりか、大勢の知人、友人が亡くなっておいでになる。

そうゆう人たちに対して何をもって報いるか。やっぱり自分が生き延びて、その人たちの供養、回向をすることが行者の務めではないか。

また、元気な人達や幸せな人達には、幸を持続していただき、落ち込んでいる人にはこうゆう生き方があるんだヨということを体で見せてさしあげる。その人達が、ああそうか、あれだけのことがやれるんだったら俺もがんばって生きてやろうじゃないかって、そうゆう気持ちを汲んでいただければええんじゃないか。

そんな思いが先行してきて、どんなことがあっても、この『行』はやり遂げなければならないと決心してやり直すんです。そんな思いと考えでもって、成功するということは不思議だけれども、とにかく無事に満(まん)ずることが出来るわけです。 <続く>
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