浅野 勝人 (安保政策研究会理事長)
一番最初に赤山に下りて行った時に赤山の神社の所で、「本日から赤山苦行に入りました酒井行者でございます。昔からの言い伝え、口伝によりますと苦しみを乗りこえて、この『行』を自分一人で成し遂げますと、来年の京都の大回りの時に赤山明神がものすごいお力になってくれるということを聞いております。
今日からどんな事態がおきましても絶対に人の手を借りず、自分でやり抜きます」というようなことを誓ったわけです。体(てい)のいい願掛けみたいなものです。
ところが本番になったら、自分の不注意から動けないほどの重傷を負って、一人でやり抜くのが難しい事態にぶつかっちゃったわけです。
黙ってても半端な様子じゃないことくらいみんな知ってますから、周りの人たちが手伝いましょうとか、せめて坂を上る時、下(お)りる時に応援したいと言って下さるんですが、神様と仏様に約束したことだから手伝っていただくわけにはいかないんです。
皆さんの申し出をお断りしながら、ずーと自分で突っ張っていたんだけど、その間、さっき言ったようにリンパ管が腫れるわけでもなく、破傷風になるわけでもない。一生懸命がんばっていられるんです。
これは本当に自分以外の自分がどっかにいるんだ。それを人々は神様だとか、仏様だと言うんだ。仏様とか神様っていうにはこうゆうことなんだ。
本当の姿は、これと違うのかもしれないが、詰まるところ神様や仏様は自分の心の中においでになるんだ。だから自分が頑張らなかったら、神様や仏様には出会えないんだと自分で知ることになったわけです。
今でも家(うち)にいろんな人が見えて、いろんな話をしているうちに「阿闍梨さん、わたしネ、コーヒー飲むのやめたんです」「何でやめたの」「なんとかかんとかで願かけてるんです。それでやめたんです」
ある人は「水以外のものしか飲まないことにしたんで、水呑むのやめる願かけた」って言うの。
「ちょっとあんた待ちなヨ。願かける、願かけるっていうけど、知ってんのか、願って。自分の経験から言ったら、願をかけるっていうことは、仏様と自分の命のやりとりなんだヨ。仏様に言うこと聞いてもらおうと思ったら、自分は一生懸命やらないと駄目だ。それに負けちゃったら、自分も命を落としてこの世からいなくなるんだヨ。そうゆうことからいうと、本当の願かけるってぇーのは生涯一回しかないんだ。
あんたはコーヒー1杯で命をやりとりしなきゃなんないのか。水の一杯で命をやりとりしなきゃなんないのか、よく考えてみナ。そんなことを言わないで、お願いしますと言えばええんャ。私はこれこれこうゆう訳で今日からコーヒーとか、お水を断ちますけど、お不動様でもええし、お地蔵様でもいいやナ。どうぞ私にお力をお貸しくださいませって言って、一生懸命やれば、それが一番いいことだ。
願をかけるっていう時は、一生に一回しかないんだから、一回かけて成功したらもうあとは効かないヨ。ダメだった時は、自分が死ななきゃならないんだからネ。」言ったら、「わかりました。今度からもう願かけたって言いません。お願いにまいります」って。
結局、本当に全力尽くしてやるだけのことやったら、初めて自分以外のもう一人の自分の姿が現れて来る。それが仏様とか神様の存在なんだってことですよネ。ですから何事もあきらめないで一歩づつ一歩づつ全力を尽くして進んで行くっていうのが何よりも大切なことなんですネ。
「千日回峰行を何でもう一遍やるんですか」っていうことなんですよネ。
何でもう一遍やるんですかってことじゃなくて、本当のこと言うと、やることがなかったんですヨ。人間っていうのは、得手と不得手のものがある。これをクリアーして次のものをやってくれっていう器量のある人だったら進んでやればいいわけ。
僕には、そうゆうものが何もない。歩く以外に何もなかったわけですヨ。なんで同じことをもう一遍やってんのかって笑われたって、自分がそれを一生懸命やればええんじゃないのか、そうゆう風に思っただけのことです。
それがどこからきたかっていうと、結局、自分の住んでる寺房からですネ。草鞋を履いて、ずーと山を回るでしょ。帰って来てわらじを脱ぐとボロボロになっててもう使い道がない。明日はまた新しいわらじを履いてスタートして行くわけです。
スタートして、動いて、家に帰ってくるまでの間は何だろうかっていうと、それは拝みながら活動している姿なんです。「動」の姿なんです。動きの世界。
一生懸命拝んでるつもりだけど、つまらないことを思い出したり、考えたりしながら歩いてる。
たとえば歩いてるうちに、蝋燭が切れじゃったから新しいろうそくを注文しとかにゃいけないやとか、そんなこと拝む時に関係ありゃしないんだよネ。それから、ああ米が切れてるから米屋に言わなきゃいけないナ。なんてつまらないことを思いながら帰って来る。
帰って来てボロボロの草鞋を脱いだら、その日の行動はすべてそれでお終いなんです。ひと晩休息して、明日また新しいわらじを履いて出て行く。そのくり返しは「動」の後の「静」。動きから静の世界に入ってまた動に連なる。 <続く>